神社

庭の鳩に餌をあげないでください

22才の話

ハッピーバースデーロージーリリー。

ということで22才になり、明日をもって結婚3年目に突入するので、21才で起こった変化を思いつく限りまとめておく。

取締役就任

親会社の子会社の取締役になった。まぁあんまり偉くなった感はない。部下でも入ればエライ!みたいな感じになるんだろうけど、まぁいないし、そんな変わらなかった。

でも裁量権が増えたりして、自分のやるべきことを自分が決められるようになったのは良い変化だったと思う。

整体に週5くらいで通うようになった

腰の痛みに耐えかねて通ってる。整体の先生に『ぎっくり腰とかホント気をつけてくださいね……』って言われる。加齢が辛い。

同年代が大学卒業して新社会人になる

ということで僕も新社会人気分で今年度を出発しようと思う。年度終わりに加齢するのは、いろいろな節目が一気に来る感じで、なかなかどうしてグッと来るものがある。

同年代各位、大学卒業おめでとうございます。新社会人は入社おめでとう。

今後

まぁなんかなんとかしていくしかないでしょう。奥さんがめちゃくちゃ祝っていてテンションが高い。夜中なのに元気すぎる。

大事なリンク

新社会人祝いはこちらからお気軽にご恵投いただけます。また今年は知人の機知に富んだエントリを見たので、特設ボタンを設置する運びとなりました。

才能と天才の話

今日は才能の話をしようと思う。

さて、どこから話したものか、とりあえず、人には才能というものがある、ということで話を進めるので、そこは一旦飲んで欲しい。世の中には才能などなく、すべては努力によって培うものである、という方は不愉快だろうと思うので読み進める必要はない。

とにかく僕の認識では世の中には才能がある。才能をなんと定義するかについても意見が割れるので、ここは『同じ努力をした際、平均より成長が早い個体』を才能を持っている個体としておく。A くんと B くんが同時にプログラミングを始めて、1年後に A くんの方が優秀な技術者として育っているとすれば、それは A くんが B くんより才能があった、とする。

さらっと見回してみても、多くの才能が世の中にはある。プログラミング、音楽、スポーツ、絵画、話術、経営、などなど。つまりは何かをするときにその才能が自分にあるかないかみたいなことを毎回考えることは可能だということになる。例えば僕はおそらくプログラミングの才能が平均よりはあったので、努力すれば上昇が知覚できる程度には才能があるが、料理などは多分才能がなく、努力しても能力が上昇しているかわからないのでやる気が起きない、みたいな感じで、こういうのが得手不得手だと僕は思っている。やっていないことは不得手ではなく、未観測の状態なので、才能があるかどうかはわからない。

才能は 0 か 1 かの有無ではなく、 1 から 100 くらいの幅のあるものだと思っている。努力した時間×才能で、最終的な能力が決定するはずである(もちろん、事はもっと複雑で、どう努力したか、なども含まれるが、その努力の方法に工夫出来るかも含めて才能であるということにしておこう)。

さて、長い前置きを経て、やっと天才の話をしよう。僕の思う天才とは、つまり上記の才能の値が 90 とか 100 とか、とにかく圧倒的であり、他者の努力を嘲笑えるほどに成長する人である。で、こういう人は多分いる。同じだけ努力しても絶対に同じ状態にはなれないなと思う人に出会うことなど、ざらにある。こういう人を見つけたらその人にはなるべくその才能ある分野の事柄をさせるべきである。他の人間に投資するよりよほど高速にその分野について習熟してくれるので実に費用対効果が高い。人海戦術を取っていないなら、僕は間違いなくその人にその分野の事柄を一任する。

人生のスタート時に才能が配られているとすれば、その人が死ぬまでに活躍できる分野も決まっている、ということになってしまうが、まぁ実際の所そうでもない。だって、やらなきゃ発露しないのである。僕にもしも自動車修理工としての才能が極限まであったとしても、僕は多分今後の人生で自動車修理工にならないのでその才能は発露しない。したとして齢60歳とかの地点で発露しても、努力する時間が足りなくてタイムオーバーだろう。そう考えると、いろんな分野の事柄をおしなべて一気にやれる義務教育は凄まじく便利である。強制的にやらせてくれるので、才能が発露する分野を探しやすい。人間、未経験なものに対してはどうやって努力すればいいのかすらわからないので、とりあえず入り口の努力をさせてくれる義務教育は実に良い仕組みであると思う。

こうやって話していると、才能があることは全面的にいいことのように思えるが、天賦の才とでも言わんばかりの才能が発露した時、周りはその個人に対して、概ねその分野以外へ進むことを反対し、止めようとする。上記の通り僕だってそうする。だってその人のその才能をむざむざ捨てるというのは実にもったいないことに思えるからだ。それはつまり、人生から自由度が失われるという意味でもある。ベートーベンが音楽を好きだったかはわからないが、とにかく彼は音楽の天才だったとして、その才覚を見出した人間はベートーベンが音楽から離れることを絶対に許さないだろう。ベートーベンがどんなに文学を愛していて、才能がなくとも人生の全てを文学に費やして構わないと覚悟を決めても、才能がそれを許してはくれない。

ちょっと他より上手に何かできると、その分野についての天才だと褒めそやす人がいるが、僕はそんな賞賛を受け取るのはまっぴらごめんだし、特定の人に対してあまり天才などとは言いたくない事のほうが多い。『彼は天才だ』というのは、その人の能力は才能によってのみ築かれたもののように言っているようで気が引けるのである。才能があるなし関係なく、多くの努力をした人に対して『まぁでもそれ才能があったからだよね』と軽々しく口にするのは、好ましいと思えない。

あまり天才だなんだと褒めそやすのも、考えもんである。

憤怒と侮蔑の話

技術的負債云々の話から、自分の失敗を思い出したので。

ある行動から人に悪意をぶつけるとき、もしくは吐き出してしまった後、ちょっと冷静になると、いつも憤怒と侮蔑を思い出すように心がけている。

つまるところ僕はその人に憤怒しているのか、それともその人を侮蔑しているのか、ということ。とにかく憤怒と侮蔑は明確に分けておかないといけない。大げさな言葉にしているのは、極端にしないと『どっちもかもしれない』なんていう曖昧な考えになるからで、ちゃんと分別するために大げさな言葉を使わないといけない。

憤怒しているというのはつまり怒っているので、それはもう腹を立てている。『こんなクソコード書きやがってちくしょう!あの野郎!』みたいな感じ。僕はよくこういう状態になる。自分にもなる。それはもうよく怒る。大体僕は短気なので、すぐに怒ってしまう。でも、元のコードを書いた人を侮蔑してはいけないので、怒っても怒っても、出来る限り侮蔑しないようにしている。というか、毎回『侮蔑はしていない』と自分で自分に確認している。

侮蔑はその人を否定する。コードの話ではなくなって、人間性を嫌ったり蔑むことをする。『クソコードしか書けない糞野郎め』みたいな感じ。憤怒と似たようなもんじゃないか、と思った人は一回ちゃんと考えた方がいい。無意識に侮蔑することほど危ない行為はない。人は成長するし、堕落もする。変わっていく生き物だから、簡単に侮蔑すると、その人の成長をも認めなくなる。僕はそういう行為が好きじゃないので、やられると多分怒る。

前に、とあるプロダクトのコードを全面的にリプレースしたことがある。ある個人が作ったものを、僕が1人で全部置き換えたのだ(完璧な仕事ではなかった)。元の設計はアレな感じで、徹頭徹尾僕は元のコードに怒っていた。そして、前半の間僕は元の担当者を侮蔑していた。当時意識的に侮蔑していた訳ではもちろんない。つまり僕は無意識に彼を侮蔑していた。その後、いろんな人に話を聞いたり、話をしているうちに、どうやらこれはよくないぞ、という発想を得た。コードに怒るのは好きにしたらいいと今でも思っているが、侮蔑してはいけない気がするぞ、と。そこで彼に対して侮蔑するのを辞めた。彼には彼のいいところがあり、あの仕事はミスだった。そして僕はそのミスに対して大いに怒っているが、彼を軽蔑している訳ではない。と。

どれだけ怒っていても、結構簡単に人は許してしまうものだと思う。意外と『まぁ、もういいか』となる。出来ない人は多分心のどこかでその人のことを侮蔑しているのだと思う。怒り続けるというのは難しい。体力も使うし、なにより何かの行動から怒るには同じ行動を絶対に自分は出来ないのだ。自分が設計ミスをしているのに、設計ミスした人に怒り続けるというのは難しい。その矛盾を自分が抱え続けられない。

ただし侮蔑はどれだけでも出来る。どれだけ長い期間であっても人を侮蔑することは簡単だ。『奴は無能』『出来ない人』『俺より下』だと思っていれば余裕で一生侮蔑していられる。侮蔑したきっかけの行為を何度も論って侮蔑出来る。成長を無視して、変化を軽視して、いくらでもやれる。自覚的であれば、それでいい。そういう風に自分が他人を侮蔑しているのだと知っていればよい。侮蔑する行為そのものが悪かどうかはこの際どうでもいい。無自覚であることの方が問題で、無自覚な侮蔑は他人の成長を止める。何をしてもその人はあなたから軽視され、如何に学んでもあざ笑われ、変化は冷笑の元に切り捨てられる。そんな環境で成長を求めるのは地獄である。何をやっても罵倒か無視しか待っていないのに、足を止めれば足を止めたことへの罵倒が待っている。

老害』という単語は実に危ない単語だ。ある行為を指して『あの老害め』と罵ると、怒りが簡単に侮蔑にすり替わる。レッテルは恐ろしい。一度やらかした侮蔑を取り下げるのは難しい。長引けば長引くほど撤回不可能に陥っていく。

もうすでに何度も言っていると思うが、無意識に人を侮蔑してはいけない。それは呪いである。自分と他人の両方を賽の河原へと運ぶ片道切符である。絶対にやってはいけない。絶対やるな。フリではない。絶対に無意識に人を侮蔑してはいけない。

侮蔑を撤回する方法は、その人のことを褒めることである。本人に伝えるのが気恥ずかしいなら、別の人へ褒め言葉を言うだけでよい。そのうち自信がついたら、その人を飲み屋だかどこかへ誘って、褒め言葉をきちんと伝えること。突然褒められたその人は面食らった顔をするかもしれないけど、悪い気はしないはずである。

人間は他人のいいところを探すのが上手だと思う。というか、生き物が進化するためにはいい個体のいい部分を模倣するしかないので、生き物は大体別個体のいいところを探すのが上手いはずである。意識的に探せば長所はいくつか出てくる。もし出てこないなら共通の別の知人にいいところを聞くとよい。自分の目が侮蔑で濁っていることを忘れたまま探すと、長所を見つけられなかったことを論ってまた侮蔑を深くするので、注意してほしい。とにかく1点でも見つければ、その点を褒めるといい。特に自分にない長所だとなお良い。侮蔑を撤回するいい理由になる。『ああ、自分はこのいい所をわかっていなかったから勘違いして侮蔑していたんだ』と自分に言い訳すべきである。言い訳もなしに侮蔑を撤回出来るほど心の出来た人間は無意識に侮蔑などしない。

最後になるけど、憤怒はいくらしてもよい。貯めこむべきではない。きちんと怒らないと、怒られる側は怒られるような事だと思わないまま人生を終える。的はずれな怒りでも、的はずれであれば自分が次は怒られるだけである。新たな視点や情報を得てラッキーだったと思えばよい。怒った後はちゃんと自分が侮蔑している訳ではないということをしっかり伝えることも大事なので、できれば忘れないように。

憤怒は伝えて良い。しかし、無意識に侮蔑してはいけない。

山城の話

推敲とかする気はない。思いついたまま書いてそのまま公開しておわる。故人の話の上不謹慎だが、気に食わない人も読んでよい。

昨日は山城の送別会だったので、送別してきた。

いろいろ悩んで、俺は会社を辞める友人の送別会くらいの気分で、参加することにした。俺は、もう十分皆悲しんだのだから、今度は笑わないといけないと、すごく強く思っていて、笑い飛ばして終わるために必死で笑っていた。ちょっと必死すぎてキモいくらい必死だったと思う。

今ここで笑わないと、次笑えない気がした。俺は今後も楽しく彼の思い出話をしたいのだ。苦い思い出になるのは、まっぴらごめんだった。

何人か泣いて、たくさんの人が笑って、あーやっと終わったぞ、これで俺はこれで山城を笑い話に出来るぞ、大丈夫だぞ。多分こうでいいんだ、もうこれ以上泣くと次はないぞ、だめだぞ、と思って、あー、うん、終わった。

送別会の後半、好きにマイクを奪って好きなことを言って良い空気だったから、マイクを奪ってアホみたいなトークをした。酔った勢いというのは恐ろしいもんである。相当アレなことを言ったが、まぁ許して欲しい。あとで妹さんには謝っておいたから。

俺は山城とそんなに密に過ごしてない。あの場の誰よりもきっと薄い薄い関係性なんじゃねぇかと思って途中で足が震えた。俺はここにいていいのか、俺が泣けないのは、俺が山城とあんまり親しくないせいなのか、俺はなんでこんなに必死に真面目にならずに笑おうとしてるのか、なにやってんだ。

今冷静になってきた。ちょっときつい。これはマズい。このまま真顔になったら、マズい。なんで笑って終わる。

もう泣いたし、昨日はアホみたいに笑ったので、これで山城は死んだ。多分いろんな人の中で、昨日山城が死んだ。

おつかれさん。

お金の話

ふと思いついたのでお金の話をする。

お金は欲しい。あればあるだけいい、ような気がする。気がするというのは実際に僕は山ほどお金持ってるわけじゃないからわからないんだけど、とにかくお金欲しいなーって感じ。乾くほど欲しくないけど、あげるよって言われたらもらうし、もらえそうならくださいって言うくらいはお金欲しい。

んで、お金で何が出来るのかっていうと、僕はわりと昔から(高校生くらい?)お金については『不幸を解決するためのもの』だって思ってる。お金たくさんあっても幸せにはならないんだけど、不幸を解決できる。病院に自由に行けるとか、すごく欲しいものを我慢しないといけない苦痛とか、そういうものが、お金で解決できる。けど、買ったから幸せになるかは、わかんない。持ちすぎると、人間は何かがおかしくなってしまう。お金の不幸はお金では残念ながら解決できない。お金を使うことに苦しんでいる人も多分いる。お金がありすぎて、友人なのかお金目当てのハイエナなのかの疑心暗鬼にとらわれる人だっているとおもう。

不幸がちょっと残ってるくらいで使いきれるぐらいが、持ってるお金の量としては多分ちょうどいい。全部解決出来ると、すごい善人みたいになっちゃって、人助けとかしようとしたり、変なことを始める。人間はおかしないきものだから、自分の不幸がなくなると他人の不幸も同じスキームで解決出来るような気がしてくる。お金では解決できない不幸がある。お金にかぎらず、何かで成功したり幸せになった人は、そのスキームを他人に実行させるのが使命だと言わんばかりの顔をする。多分、それはおかしいのだと思う。

お金で買えないものは、わりといろいろあるけど、まぁでも、『買う』って話になるとそりゃまぁお金なので大体なんでも買える。手に入らないもの、だといろいろありそうだけど、でも多分思ってるより買える。例えば恋人とか。ホント死ぬほどお金あったら札束ばら撒けばある程度好きに異性が手に入ると思うよ。その後幸せかはわかんない。『恋人がいない』って不幸は解消できる。友人も同様に。

お金で買えないことを神聖化するみたいなのもよく見かけるけど、あれは筋が悪いんじゃないかなぁ。『お金で買えない = 素敵』みたいなのは変だよ。お金で買える素敵なものはたくさんある。安全とか、健康とか、僕は PC が好きだから PC を買うとすごく機嫌がよくなって幸せになるし、『お金で買えない素敵なもの』ってのは多分お金が嫌いな人が言ってるんだと思うけど、別にお金なんて好きでも嫌いでもなくていいのに。あるから使う、ないから稼ぐ、備えて貯める、でいいんじゃないかなぁ。

皆、少しお金を大事にし過ぎだと思う。そんなに高尚なもんじゃないと思うよ。お金について真剣に考え過ぎな気がする。もうちょっと雑に扱っても、多分大丈夫。

あー、お金ほしーなー、くらいで、僕はちょうどいい。