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賢い人は説明をするのがうまい話

元ネタ:

理解力が低い方は「理解しない」のでなく、「理解力の範囲で理解」する → 表面的な理解に留まったり、曲解に疑問を持たずに止まる。 - Togetter

TL;DR

❌ 賢い人は説明をするのがうまい

⭕ 説明をするのが上手い人と賢い人は別

あと「知りたい要点だけ教えてくれる人」「理解しやすい文章を書く人」「理解した気分にさせてくれる人」は全部別種なので、相手がどのタイプなのか見極める知性が聞き手にない場合、聞き手は知識の獲得機会を失う。

聞き手に最低限の知性が備わっていない場合、賢い人の運用が出来ないため知的格差は拡大する。

本題

個人の体験として僕は「説明がうまい」と言われることがある。説明がうまいと褒めてくれる人はついでに僕の機嫌を良くするべく「なので君は賢い人なんだね」と添えてくれるが、僕から見た世界の景色としては僕の賢さは日本上位50%に入る程度なので、つまり並である。ついでにいうと、僕より圧倒的に賢い人は僕の説明能力を褒めないので、おそらく賢い人から見て僕の説明能力は特段に秀でたものではない。

ついでにいうと褒められる説明能力は口頭が圧倒的で、文章についてはさほど褒められる機会は多くない。

僕の認識する僕の得意分野

まず大前提として僕が認識している僕の得意な技能は、人の機微を伺うことである。機微を知れたからといって最適な返しができるわけではないので役に立たない場面も多いが、少なくとも説明をしている最中に聞き手がなにかの理解を漏らしたり、知った風にして乗り切っていることに気づくことは僕にとって容易である。

概ね、僕は僕のしたい説明を最短ルートで始める。「その要求は RDB では CAP 定理の3項全てを要求しているので実装できません」。

この説明の最中、聞き手が「RDB」に引っかかれば「RDB っていうのはサービスのデータを保存しているでっかい Excel シートみたいなものがある、いわゆるデータベースと言われるソフトのことで」という補足を追加し、「CAP 定理」に引っかかれば「CAP 定理というのは一貫性、可用性、分断耐性という3つの保証のうち、同時に満たせるのは2つまで、という定理のことで、これを満たしたソフトが作れたらすごい特許となんかどえらい科学賞が取れるレベルの話になってきます」という補足を追加する。

補足の中で聞き手が新たになにかに引っかかれば、その補足を追加する。話の長さが相手次第で伸びる悪手だが、基本的にこれを満たせばほぼ必ず聞き手に理解して欲しい知識レベルが満たされる。

あとは知識のひけらかし大会にならないように「この辺はわかってると思いますけど」という顔で説明を繰り返すだけで聞き手は理解してくれる(か、僕の能力では疑問が検知できないレベルにまで落ちる)。なお、これは文章では成立しない(聞き手の機微を感じる方法がない)ため、僕の文章説明能力は懐疑的である。

世界が疫病の危機にさらされて対面でのコミュニケーションが減り、技能の発揮機会も減ったので COVID-19 には大変困らされている。

説明の上手い人が成立するには

前述した僕の技能で「説明が上手い人」ラベルを手に入れるには、以下の前提が必要になる。

  1. 説明に成功する
  2. 説明に成功した相手が一定以上の賢さのある人だと周囲に認められている
  3. その相手が僕の説明能力に対して評価をくれる
  4. その評判を聞いた上で説明を求めた人に説明を成功させる

全条件を満たしてループを回した回数が多いほど「説明が上手い人」度は増していくが、信用と同様にどこかで「彼の説明はイマイチ要領を得なかった」と言われると評判が落ちる。

そして、これらの条件には「真に聞き手が説明を理解すること」や「誠実な対応を取ること」は含まれない。「説明が上手い」は評判なので、知性を保証しない。もし僕が知人間で言われている程度に「説明が上手い」ならば、知人の知性を信用する限り僕はとんでもなく頭がいいことになるが、そのような事実はない。

どれだけ名文の解説を執筆しても、最高の解説を披露しても、ウィットに飛んだ比喩表現を使い倒しても、理解できた気分になって説明に満足したかは聞き手の体験でしかないため、体験を満たすのは難しく、必要とされているのは聞き手を喜ばせる能力に近い。つまり、巷で噂される「説明の上手い人」は「自分をいい気分にしたパフォーマー」に近い。

ところが自分をいい気分にしたパフォーマーが別に賢くない、という前提になると別に賢くないやつに教えてもらってその上いい気分になった奴ということになり、聞き手の体験が著しく悪化するため「説明をするのが上手い人は賢い」ということにしておく必要がある、ということだと僕は認識している。

たまに幼児がはっとする説明をして感心したといったエピソードが披露されるが、あれも賢さの変わりに純真さが自分より高いモノに感心したという聞き手の感想であって、その説明の知識としての価値を保証しない。

「説明の上手い人」は話者によって成立せず、聞き手によって成立する。

賢い人の振る舞い

知性、地頭、才能、賢さ、なんでもいいがまぁとにかく「賢い」人、僕の認識する僕の評価軸における賢い人の振る舞いでいえば、別に彼らは説明能力に関して秀でているというような共通点はもたない。共通する特徴として認識できるものの一つは質問が異様に上手い。

質問が上手い、というのはなにかの説明を聞く能力や疑問を投げかける能力はもちろん、疑問を投げかける相手を選ぶ能力からして上手い。とにかく最短コースで今必要な知識を手に入れるために僕のような人間に補足をさせながら必要な知識の概要を把握し、その深堀りにできの良い解説書を読み、答え合わせに口頭説明能力の低い同分野の専門家への口頭質問を行う。

賢い人は常ながら多くの知識を持っているが、多くの知識を持っているということは知識を獲得するという経験の回数差でもある。どうやった時により早く知識を獲得できたかというナレッジが彼らの中には存在し、その成功体験をできる限りなぞる。

なんらかの専門家は専門性を向上させていくにつれ、その専門を成立させる周辺分野の知識が必要とされるケースが多く、専門でない分野の知識獲得にはその人の知る最短経路を取る。そういう場合、僕の知る限り彼らは上記のような振る舞いをすることが多い。

エンタメの一つとしてわかった気にさせる系解説者のことも気に入っているし、そこで披露されたわかった風になれる解説からキーワードを拾って後日自己学習することもあるように見える。賢い人達は「説明の上手い」とされる人が好きそうに見えるが、好きというより利便性に好意を抱いている気もする。

なので、そういった賢い人達が褒めている説明の上手い人にされた解説が腑に落ちなくても自分の知性を疑う必要はない。彼らに比べてその話し手の運用が下手だった可能性はあるので、自分にあった話し手を求める方が建設的である。

つまり、賢い人達は自分にあった解説者の発見が異様に上手いので理解が早い。それは人であったり書籍であったりと聞き手によって様々なので、自分にあった解説を手に入れるのが賢くなるための最短経路に見える。

相手が賢くないから自分の説明が通らないということはない

前述した通り、説明の成功は聞き手の感情に左右される。どれだけ理詰めの理論的に正しい解説を行っても「全然納得できなかった」と言われれば説明は失敗に終わるため、聞き手にとっては「説明の下手な人」になる。

そのため、説明の成否は聞き手に対して発揮されたホスピタリティの量に左右されるといっても過言ではない。1対1の説明はできるが、1対多の説明は苦手だという人もいるかもしれないが、そういうものである。なので「自分は賢いのに相手が賢くなかったので説明が通じなかった」は正確には「自分の技量が足りず相手を満足させられなかった」であり、それは相手が欲しているものが満たせなかっただけという話なので、別に自分の技量を疑う必要すらない。

ただし、相手が賢くないので自分の説明が通らない、という体験として自己の中で積み上げていくことは相手への見下しを誘発するし、人は存外見下されていることに敏感なため、その時点で話し手に対し悪感情を持ちうる。話し手に悪感情がある状態で「今の話は納得したぞ」と両手を挙げられる聞き手は少ないため、その経験と態度の積み重ねが説明失敗の原因足り得ることには留意されたい。

逆に「よく知らない人から解説される方がすんなり話がわかる」と思っている人は身近な人間から賢しく解説されることに忌避の積み上げがあり、話し手が身近な人間である時点で体験が最悪なのでどう説明されようと結果体験が悪いので説明に納得できず、話し手は説明に失敗する、というケースもありえる。

この場合、その聞き手にとって知識を得る最適な手段は確実に身近な人ではないので外側に知識を求める他ないが、前述した通り説明の濃淡は話し手のホスピタリティに起因する場合が多く、聞き手としてより楽により親身に解説してくれる話し手を求めるなら、過去の悪体験について忘却か整理が必要だろうと思う。

また、情報粒度の問題だとか相手が今持っている前提にそれた解説をするとよくないとか、説明の成功を話し手に起因させたい人は多いが、僕の認知の上ではそれすらも単に聞き手を満足させるために発揮されたホスピタリティの一部であり、究極的に聞き手に左右される以上、万人に向けた完全無欠の解説は存在しない。自分がされて気分の良かった解説例をあげているか、自分の解説が成功したと思える例をあげているにすぎない。

まとめ

適切な対象に適切な質問をぶつけて得たい知識や体験を獲得するのが賢い人だと思うので、そうなれるよう努力している。

この速度が減速、減衰すればするほど出来ている人に比べて相対的な知識量や認知の解像度が落ちていくので留意したい。