神社

庭の鳩に餌をあげないでください

文脈の固定の話

DDD とかそういう話にも繋げられるので鳩舎に書こうかと思ったが、大してまとまっちゃいないので神社に残しておく。

今日は文脈の固定の話をしよう。文脈とは言ったがより大雑把に言うならば『コンテキスト』とか『前提』とかそういうもんのことを指している。ここでは面倒なのでそれらの会話や言葉の解釈に使う下地すべてを文脈と呼ぶ。

文脈を固定する、というと大仰に見えるかもしれないが、案外簡単な話である。実践が難しいだけで。

友人 A の話

とある友人は、僕やその他の人に話をする時に、たとえばイの説明をする話の最中に、イの説明に使ったロの説明を始め、ロの説明に使ったハという物の説明を始めて、結局イの話に戻ってくるころには相当な時間が経っている、というようなことがある。最初のうちはええいしゃらくさい話をする奴だなと思ったが、よくよく話してみれば実にわかりよくイロハを伝えてくれ、しかも僕の考えていたロと彼の言うロが違っていたことにも気付かされる、というようなことが多くあった。件の彼は実に賢い人で、こういう『言葉の捉えは人によってわずかに差異があり、それが積もると話が通らなくなる』ということに敏感な人であったと思う。

ここで話を終えてもいいくらいに、これこそが文脈を固定するということであるのだが、人は人と話すとき、なんらかしらの共通認識を使って話をしている。例えばこの神社であれば、読む人は日本語をわかり、中学生くらいの漢字の読解力があり、分からない単語は辞書を引く程度の能力があり……とまぁつらつら書いてゆけばキリのないほどにいろいろな共通認識を使って言葉を話にしている。

何を当たり前な、と思われるかもしれないが、これは非常に難しい作業で、僕は彼と話を繰り返してその大切さを脳に焼いて尚うまいこと出来ないことが多々ある。自分の知っていることを他人が知っているのが当然のような気になってしまって、他人が何を知っており、何を知らないのかという当たり前のようでちっとも想像出来ないことが想像出来ていないことに気づけていないのである。この辺の認知の不一致からくる会話の齟齬は概ね後々から響いてくるので、失敗にその場で気づかないことが多いのも非常に質が悪い。

最近もこれの話を人としたので、より改めて文脈を固定して話をせねばなぁと思い返したのが、今日キーボードを叩いている理由でもある。

私は『スイカ』という単語を知っており、『スイカ』を知らない

小さな子どもなどがスイカを指さして『あれなあに』と問う時に答えられることはそう多くない。概ね僕は『あれはスイカと言うんだよ』と説明して、説明しきったつもりになるだろうが、子供が更に『スイカってなあに』と質問してきたとして、さてその時一体何を教えられるだろうか。

その辺の大人1人を捕まえて『スイカをご存知ですか?』と問いかけると『知っていて当たり前だろうが』というような顔をするだろうが、実は知っているのはあの緑と黒の縞模様で人の頭ほどの大きさがあり、中には赤く水っぽい果肉が詰まって、日本では夏の風物詩とされているあの野菜を『スイカ』と呼ぶ、ということであって、スイカそのものについて深い造詣があるわけではなんらないのである。

このように、『それをなんと呼ぶかは知っている』が『実はその言葉が指すもののことをよく知っているわけではない』ということは多々ある。『知っている』というのが何を指すかというのはまたいくらでも議論の余地のある話であるが、ここでは『知っている』の言葉の意味を限定したいわけではないので省略する。スイカの例で納得行かないなら、僕の事を想像していただくと良い。僕は rosylilly という名前を使ってる。なので多分あなたは『rosylilly さんを知っていますか』と聞かれれば、あああの神社とか言う名前のブログをやっている話の長いやつか、と思えるだろうけど、それは本当に僕を説明しきるに足る言葉だろうか。

名を持っていないものは認知が非常に難しい、というのはよくある話で、例えばよく利用する設計に名前を付けて回った結果、皆の認知が共通になり、大変便利になったというようなものに、デザインパターンなどがある。GoFデザインパターンによって生まれたものは名前だけで、その名が示す設計については名がつく前から利用されていたものばかりである。が、名がついたことで『それ』は『コンポジットパターン』などの名を持ち、人々は『コンポジットパターン』を見つけることが出来た、ということだ。僕もプログラマの端くれとしてデザインパターンを知っているつもりではいるものの、デザインパターンという言葉が指す本質とはなにか、という話をされると喉に単語が引っかかるような物言いしか出来んだろうなと思う。この辺が実に難しい所である。

なので、名を知っているくらいで知っていることにしてしまうと、その実何もわかっていなかったというようなことになるのは目に見えている。『rosylilly を知っている?』に『はい』と答えたからといって、僕の人柄から容姿から、果ては経歴までを知っているというようなことはないだろう。それでも話をするのに僕を知っていることが前提ならば、僕の説明から始めなくてはならないのである(例えば、僕が酔ってやらかした面白話をするには、僕の普段の人となりを知らないと、酔ってどう壊れたかがわからぬので、笑いどころがつかめなくなってしまう)。

『自分が知っていることを他人が知っているというわけではないのだから、きちんと説明しましょう』というような話はどこそこで耳にするありふれた言葉であるが、『知っているといったからといって、自分と同じほどそれに造詣が深いわけではないかもしれぬのだから、きちんと説明してあげなくてはいけないよ』というのは、そう多く聞かないので、皆案外蔑ろにして会話しているのだろうなぁと思う。それでも世は回るので、事もなしと言えばそうなのではあるのだけれど。

物事はプリズムで、見える角度が変われば名が変わる

名が与えられると大変認識しやすくなってよいという話をしたばかりで恐縮だが、安易に名づけをするとしっぺ返しを食らうので注意して欲しい。ちなみにココで言う名とは、例えば『rosylilly』とかの固有名詞とかだけでなく、『神社の人』とか『恋人』とか、なんでもいいのでとにかく何かを示す呼び名のことである。

例えば、僕の奥さんから見た僕は亭主であるので、『旦那さん』とか『夫』とかという名で呼べるのだが、そういう名付けにしてしまうと、その名付けに使った説明文からはみ出た僕の説明文を忘れてしまいがちになる。旦那の説明文の中には、僕の好物や、1人の時に楽しむ趣味の話などは含まれておらず、旦那としての僕の説明しか入ってない。なので、長く旦那と僕を呼び続けると、そのうち実際の生きている僕と呼び名の示す先の男に違いが出てきてしまうのである。これはプログラミングでもよくあることで、このクラスは多分 User という名だろう、と思って User と名づけていたら、案外やらせることが多分にあり、どんどん追加されていって結局このデカイ仕事の塊は本当に User などと呼ばれるような代物だったろうか?ということになる。God Class などと呼ばれる巨大な名の完成である。

人を指すような時は、なるべく大きな(説明文が長くなりそうな)名をつかって呼ぶといいと思っている。例えば奥さんが僕を呼ぶならずっと『rosylilly(もしくは僕の実名)』と呼び続ければいい。『あなた』とか『お父さん』とか呼び始めると家庭が狂う合図である、みたいな話を熟年離婚ブームの時に少し耳にしたが、今になってみればなるほど確かにという気分である。

しかし、このような長話やプログラミングで名付けや特定の名を使うなら、なるべく説明文が短くなるようなものを採用して、その上でその名が示す先のものはなんであるかの説明を付け足し、あげく、意味が変わるなら同じものでも名を変えて呼ぶのが効果的である。これは、説明文が永ければ長いほど、その話の中で名が出てきた時に、説明文のどの部分を使って話しているのかわからなくなることが多々ある、という理由からくる。A は B という状況ならどんなに長い話の中で何度 A が出てきても『ああこれは B のことだな』とか『この A というのは B という意味や意図で使っているな』とわかるものだが、これが、 A は B であり C でもあり D でもあり E でもある。また、たまには F だったりもする。という具合になっていると、A が出てくる度、コレは一体どの意味で使われているのだろうか?と毎度思案させることになる。わかりやすく短い名なのに、使いはじめるとやたら混乱するというのは、概ねこういう状況だろうなぁと思っている。

ただ、現実には A という名が指す先がまったくの単一ということは多くない。概ね何らかの名には『甘い』『食べ物』『緑と黒のしましま』のようないくらかの説明文がついており、その上連想まで含めるともはやどういう状況だかわけがわからなくなってしまうということが多くある。なので、『この話の中では A は B というものやことを指しているよ』と前置きして、文脈を固定し、それ以外の選択肢を排除してやることで、読者は聴者は、悩まずすんなり話を聞く事ができるようになり、筆者や話者は、自分の言いたいことがうまく伝わらずやききもきするあの無力な感情から開放されうるのではないだろうか、というのが今日の話である。

このように

僕が言いたかったのは『話をするときは相手と文脈を揃えて、文脈を固定してから話をするほうがいいよ』という 1 Tweet に収まる内容だったのだが、それを誤解されないように頑張ったらこのザマである。