神社

庭の鳩に餌をあげないでください

正しさの話

正しいってのは難しい。

A さんの正しいは B さんにとっての間違いだったり、悪だったりする。フィクションでも正しさについて問うたりする場面が多くなったような気がしていて、昔ほど勧善懲悪というわけにもいかなくなったんだろうなぁ、なんて想像する。

『正しいってのは、受け入れられることだ』と昔僕に教えてくれた人がおり、よくわからんまま放置していたのだが、最近ふと思い出して、そういやそうだなぁと再発見した気分になった。

人は生まれたら、やっぱ死ぬ。死ぬのはまぁ、受け入れるしかない、から受け入れる。けど、それは多分他人ごとな時だけで、じゃあ5秒後にお前死ぬから、と言われたら多分受け入れられないから、それは僕にとって正しくないことになる。老衰で母が死ぬ日が来たら、僕は受け入れるだろう。それは、正しい。殺人事件に巻き込まれて母が殺されたら、受け入れられない。それは、正しくない。

こうなってくると、僕にとっての正しさはすごく簡単だし、他人にとっての正しさも簡単だ。受け入れられるか、納得できるか。

僕はすごくわがままなので、受け入れられることと受け入れられないことだと、受け入れられないことの方が多い。世の中には僕にとって正しくないものがあふれている気がしてくる。けど別にそれはなんていうか、存在が間違ってるとかってわけじゃなくて、他の誰かにとって受け入れられ、正しいものなのだと思う。

例えば僕は満員電車がすごく嫌いで、あれは真剣にどうしようもなく正しくない、と思うけど、それでもあれに乗らないと通勤がままならない人は(おそらく、すごく頑張って)受け入れている。受け入れる人が1人でもいるなら、少なくともそれはその人にとって正しいことだ。

正しくないことが多くあることに慣れすぎて、僕はよく勘違いをする。僕は正しくないと思ってるけど、別の誰か、しかもすごく多くの人(ぼんやりと、自分の視界の中でのマジョリティ)が正しいと言っている時、僕は『じゃあ正しいのかな』と、受け入れてしまう。受け入れるべきではないのに。それは素直に正しくないと言い続けてもいいのに。正しさは主張しなくてもいい、受け入れなければ、きちんと正しくないもののままであれるのに、だ。

受け入れてしまうと、元に戻るのは難しくなる。人はきっと、受け止める方が得意ないきものだと思う。受け止めて、受け入れて、適応するから、受け入れてしまうと、受け入れられなかった頃には戻れなくなる。そうすると、自分より若い人(もしくは、受け入れてない人)の正しさを分かり合えなくなる。意固地なやつだなと思って、受け入れたほうが楽なのに、そっちのほうが大多数なのに、と思ってちょっと小馬鹿にしてしまう。

でも、正しさは数の比率で決まるものじゃない。その人にとって、受け入れられたかそうでないかだけが正しさをかたどっていて、常識的正しさみたいなのは、その場にいる人の正しさを集めて積を出したら、常識っぽく見えるだけだ。

難しいけど、適当に自分の正しさを作っちゃいかんなぁと、いまさら思う。