神社

庭の鳩に餌をあげないでください

才能と天才の話

今日は才能の話をしようと思う。

さて、どこから話したものか、とりあえず、人には才能というものがある、ということで話を進めるので、そこは一旦飲んで欲しい。世の中には才能などなく、すべては努力によって培うものである、という方は不愉快だろうと思うので読み進める必要はない。

とにかく僕の認識では世の中には才能がある。才能をなんと定義するかについても意見が割れるので、ここは『同じ努力をした際、平均より成長が早い個体』を才能を持っている個体としておく。A くんと B くんが同時にプログラミングを始めて、1年後に A くんの方が優秀な技術者として育っているとすれば、それは A くんが B くんより才能があった、とする。

さらっと見回してみても、多くの才能が世の中にはある。プログラミング、音楽、スポーツ、絵画、話術、経営、などなど。つまりは何かをするときにその才能が自分にあるかないかみたいなことを毎回考えることは可能だということになる。例えば僕はおそらくプログラミングの才能が平均よりはあったので、努力すれば上昇が知覚できる程度には才能があるが、料理などは多分才能がなく、努力しても能力が上昇しているかわからないのでやる気が起きない、みたいな感じで、こういうのが得手不得手だと僕は思っている。やっていないことは不得手ではなく、未観測の状態なので、才能があるかどうかはわからない。

才能は 0 か 1 かの有無ではなく、 1 から 100 くらいの幅のあるものだと思っている。努力した時間×才能で、最終的な能力が決定するはずである(もちろん、事はもっと複雑で、どう努力したか、なども含まれるが、その努力の方法に工夫出来るかも含めて才能であるということにしておこう)。

さて、長い前置きを経て、やっと天才の話をしよう。僕の思う天才とは、つまり上記の才能の値が 90 とか 100 とか、とにかく圧倒的であり、他者の努力を嘲笑えるほどに成長する人である。で、こういう人は多分いる。同じだけ努力しても絶対に同じ状態にはなれないなと思う人に出会うことなど、ざらにある。こういう人を見つけたらその人にはなるべくその才能ある分野の事柄をさせるべきである。他の人間に投資するよりよほど高速にその分野について習熟してくれるので実に費用対効果が高い。人海戦術を取っていないなら、僕は間違いなくその人にその分野の事柄を一任する。

人生のスタート時に才能が配られているとすれば、その人が死ぬまでに活躍できる分野も決まっている、ということになってしまうが、まぁ実際の所そうでもない。だって、やらなきゃ発露しないのである。僕にもしも自動車修理工としての才能が極限まであったとしても、僕は多分今後の人生で自動車修理工にならないのでその才能は発露しない。したとして齢60歳とかの地点で発露しても、努力する時間が足りなくてタイムオーバーだろう。そう考えると、いろんな分野の事柄をおしなべて一気にやれる義務教育は凄まじく便利である。強制的にやらせてくれるので、才能が発露する分野を探しやすい。人間、未経験なものに対してはどうやって努力すればいいのかすらわからないので、とりあえず入り口の努力をさせてくれる義務教育は実に良い仕組みであると思う。

こうやって話していると、才能があることは全面的にいいことのように思えるが、天賦の才とでも言わんばかりの才能が発露した時、周りはその個人に対して、概ねその分野以外へ進むことを反対し、止めようとする。上記の通り僕だってそうする。だってその人のその才能をむざむざ捨てるというのは実にもったいないことに思えるからだ。それはつまり、人生から自由度が失われるという意味でもある。ベートーベンが音楽を好きだったかはわからないが、とにかく彼は音楽の天才だったとして、その才覚を見出した人間はベートーベンが音楽から離れることを絶対に許さないだろう。ベートーベンがどんなに文学を愛していて、才能がなくとも人生の全てを文学に費やして構わないと覚悟を決めても、才能がそれを許してはくれない。

ちょっと他より上手に何かできると、その分野についての天才だと褒めそやす人がいるが、僕はそんな賞賛を受け取るのはまっぴらごめんだし、特定の人に対してあまり天才などとは言いたくない事のほうが多い。『彼は天才だ』というのは、その人の能力は才能によってのみ築かれたもののように言っているようで気が引けるのである。才能があるなし関係なく、多くの努力をした人に対して『まぁでもそれ才能があったからだよね』と軽々しく口にするのは、好ましいと思えない。

あまり天才だなんだと褒めそやすのも、考えもんである。