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庭の鳩に餌をあげないでください

憤怒と侮蔑の話

技術的負債云々の話から、自分の失敗を思い出したので。

ある行動から人に悪意をぶつけるとき、もしくは吐き出してしまった後、ちょっと冷静になると、いつも憤怒と侮蔑を思い出すように心がけている。

つまるところ僕はその人に憤怒しているのか、それともその人を侮蔑しているのか、ということ。とにかく憤怒と侮蔑は明確に分けておかないといけない。大げさな言葉にしているのは、極端にしないと『どっちもかもしれない』なんていう曖昧な考えになるからで、ちゃんと分別するために大げさな言葉を使わないといけない。

憤怒しているというのはつまり怒っているので、それはもう腹を立てている。『こんなクソコード書きやがってちくしょう!あの野郎!』みたいな感じ。僕はよくこういう状態になる。自分にもなる。それはもうよく怒る。大体僕は短気なので、すぐに怒ってしまう。でも、元のコードを書いた人を侮蔑してはいけないので、怒っても怒っても、出来る限り侮蔑しないようにしている。というか、毎回『侮蔑はしていない』と自分で自分に確認している。

侮蔑はその人を否定する。コードの話ではなくなって、人間性を嫌ったり蔑むことをする。『クソコードしか書けない糞野郎め』みたいな感じ。憤怒と似たようなもんじゃないか、と思った人は一回ちゃんと考えた方がいい。無意識に侮蔑することほど危ない行為はない。人は成長するし、堕落もする。変わっていく生き物だから、簡単に侮蔑すると、その人の成長をも認めなくなる。僕はそういう行為が好きじゃないので、やられると多分怒る。

前に、とあるプロダクトのコードを全面的にリプレースしたことがある。ある個人が作ったものを、僕が1人で全部置き換えたのだ(完璧な仕事ではなかった)。元の設計はアレな感じで、徹頭徹尾僕は元のコードに怒っていた。そして、前半の間僕は元の担当者を侮蔑していた。当時意識的に侮蔑していた訳ではもちろんない。つまり僕は無意識に彼を侮蔑していた。その後、いろんな人に話を聞いたり、話をしているうちに、どうやらこれはよくないぞ、という発想を得た。コードに怒るのは好きにしたらいいと今でも思っているが、侮蔑してはいけない気がするぞ、と。そこで彼に対して侮蔑するのを辞めた。彼には彼のいいところがあり、あの仕事はミスだった。そして僕はそのミスに対して大いに怒っているが、彼を軽蔑している訳ではない。と。

どれだけ怒っていても、結構簡単に人は許してしまうものだと思う。意外と『まぁ、もういいか』となる。出来ない人は多分心のどこかでその人のことを侮蔑しているのだと思う。怒り続けるというのは難しい。体力も使うし、なにより何かの行動から怒るには同じ行動を絶対に自分は出来ないのだ。自分が設計ミスをしているのに、設計ミスした人に怒り続けるというのは難しい。その矛盾を自分が抱え続けられない。

ただし侮蔑はどれだけでも出来る。どれだけ長い期間であっても人を侮蔑することは簡単だ。『奴は無能』『出来ない人』『俺より下』だと思っていれば余裕で一生侮蔑していられる。侮蔑したきっかけの行為を何度も論って侮蔑出来る。成長を無視して、変化を軽視して、いくらでもやれる。自覚的であれば、それでいい。そういう風に自分が他人を侮蔑しているのだと知っていればよい。侮蔑する行為そのものが悪かどうかはこの際どうでもいい。無自覚であることの方が問題で、無自覚な侮蔑は他人の成長を止める。何をしてもその人はあなたから軽視され、如何に学んでもあざ笑われ、変化は冷笑の元に切り捨てられる。そんな環境で成長を求めるのは地獄である。何をやっても罵倒か無視しか待っていないのに、足を止めれば足を止めたことへの罵倒が待っている。

老害』という単語は実に危ない単語だ。ある行為を指して『あの老害め』と罵ると、怒りが簡単に侮蔑にすり替わる。レッテルは恐ろしい。一度やらかした侮蔑を取り下げるのは難しい。長引けば長引くほど撤回不可能に陥っていく。

もうすでに何度も言っていると思うが、無意識に人を侮蔑してはいけない。それは呪いである。自分と他人の両方を賽の河原へと運ぶ片道切符である。絶対にやってはいけない。絶対やるな。フリではない。絶対に無意識に人を侮蔑してはいけない。

侮蔑を撤回する方法は、その人のことを褒めることである。本人に伝えるのが気恥ずかしいなら、別の人へ褒め言葉を言うだけでよい。そのうち自信がついたら、その人を飲み屋だかどこかへ誘って、褒め言葉をきちんと伝えること。突然褒められたその人は面食らった顔をするかもしれないけど、悪い気はしないはずである。

人間は他人のいいところを探すのが上手だと思う。というか、生き物が進化するためにはいい個体のいい部分を模倣するしかないので、生き物は大体別個体のいいところを探すのが上手いはずである。意識的に探せば長所はいくつか出てくる。もし出てこないなら共通の別の知人にいいところを聞くとよい。自分の目が侮蔑で濁っていることを忘れたまま探すと、長所を見つけられなかったことを論ってまた侮蔑を深くするので、注意してほしい。とにかく1点でも見つければ、その点を褒めるといい。特に自分にない長所だとなお良い。侮蔑を撤回するいい理由になる。『ああ、自分はこのいい所をわかっていなかったから勘違いして侮蔑していたんだ』と自分に言い訳すべきである。言い訳もなしに侮蔑を撤回出来るほど心の出来た人間は無意識に侮蔑などしない。

最後になるけど、憤怒はいくらしてもよい。貯めこむべきではない。きちんと怒らないと、怒られる側は怒られるような事だと思わないまま人生を終える。的はずれな怒りでも、的はずれであれば自分が次は怒られるだけである。新たな視点や情報を得てラッキーだったと思えばよい。怒った後はちゃんと自分が侮蔑している訳ではないということをしっかり伝えることも大事なので、できれば忘れないように。

憤怒は伝えて良い。しかし、無意識に侮蔑してはいけない。