神社

庭の鳩に餌をあげないでください

電子書籍デバイスの話

電子書籍といって人々が思い浮かべる本の種類は様々であるので、マンガとそれ以外のテキストメインの2つのみについておすすめを紹介する。

koboSony Reader は最初から候補に入れていない。はっきり言って AmazonApple かくらいの比較なので、宗教に合わない方はご遠慮ください。

マンガ読むなら

Kindle Fire HDX 8.9 を買え。これ以上の選択肢は一切ない。

Kindle Fire HDX 8.9 は 339ppi (2560px*1600px / 8.9 inc) なので、おそらく既存のタブレットデバイスの中で最も ppi の高いデバイスである。 iPad Air が 264ppi 、 iPad mini Retina が 326ppi であることを鑑ればいかに高いかわかってもらえるかと思う。はっきり言って PC より圧倒的に綺麗に読める(MacBook Pro Retina ですら 13 inc で 227ppi 、 15 inc で 220ppi である)。

品揃えの面で考えても、最近の Amazon なら大抵の電子書籍マンガが読める。Amazon で手に入らないが、他電子書籍ストアで手に入る、というような本はごく少数だと思っていい。

ただし本体サイズが大きく、取り回しが悪いという欠点は否めないので、次点をあげるなら iPad mini Retina をおすすめする。これも ppi がメイン。買うなら Amazon Kindle Store で買って Amazon Kindle Reader で読もう。ただし、 Kindle Fire に落ちてくる mobi と iPad mini のリーダーに落ちてくる mobi はおそらく回線都合で iPad mini に落ちてくるもののほうが解像度の低いデータが来る。のでせっかくの ppi も活かしきれないことが多い。また、初期に配信開始された Amazon のマンガはソース画像のサイズがもともと大したことがないので、ハードウェアの性能向上に追従出来ておらず、どのデバイスで読もうと50歩100歩なので、期待しすぎは禁物。

どちらのデバイスの画面輝度が高いので要調整。僕のようにマンガを6時間ぶっ続けで読まないと生活が立ち行かない人間にあの輝度は辛い。

テキスト読むなら

Kindle Paperwhite 買え。212ppi と、これまで紹介してきたタブレットで最も ppi が低く、ノート PC にすら劣る解像度は劣悪な気分にさせられるものの、実際に読んでみると実に読み易い。マンガは無理。台詞もトーンも潰れてしまって意味が無い。せいぜいジャンプの紙面印刷程度に思っておくのが良い。ジャンプの印刷が綺麗だと思えるなら Paperwhite に一本化してもいいと思うけど、ページ移動時のチラツキはなかなか耐え難い物がある。

書店選び

電子書籍を買う以上、どの書店で買うかというのが大きな問題になる。大抵の電子本屋は買ったら一生そこにロックインされるので、どうせ定価で買わされるならちょっとは得させてくれるところがいいと思う。で、いろいろ買いあさって結局 Amazon に落ち着いている。

理由は単純で、 Kindle 対応デバイスの多さと取扱商品の多さでしかない。『Kindle』にロックインされているのは仕方ないとしても、サービスが対応していないから別デバイスで読めないというのは苦痛なので、仕方なく Kindle を選んでいる。達人出版会などだと、別になんら問題なく epub や pdf が手に入るのでためらいなく達人出版会で買っている。Amazon が潰れたらどうするかという問題はのこるが、まぁ Amazon が潰れた時というのは自分の家が火事になって持ってた本が焼けたみたいな状態なので仕方ないだろう。

iBooks は検討したが純正リーダーが死ぬほど使いづらい上 Android ですら iBooks の本を読めないので意味なし。Apple電子書籍をやる気があるのかないのかわからないが、ある程度市場が成熟するまでまって一気に刈り取りたいのだろうか、ぐらいの気分でいる。

J-コミなど、タダでマンガが読めるサービスもあるが、J-コミのあの劣悪な出来のリーダーはタダだから許されるレベルであって金を払っていたら絶対に使わないレベルであるのは間違いない。世にあまねくタダでマンガの読めるアプリ、サービスの多くはタダだから許されている部分が多くあるという事実を皆真剣に受け止めるべきである。

結論

電子書籍は基本 Amazon がよい。図らずも Amazon マンセーみたいな話になってしまったけど、僕は別に Amazon 信者ではない。KDP は未だにクソだと思ってるし Amazon で販売するというのが作者、出版社にとって重いコストであるのは間違いないので、 Amazon は消費者だけじゃなくて生産者にもまともに向き合った方がいい。お前らの安売りのつけを生産者に払わせるのは筋違いである。

イルミネーションの話

なんだか真面目ブログみたいになってきたので、ここらでどうでもいいネタを投下しておく。

以下、うちの奥さんと僕と友人の路上での会話。


〜映画を見た帰りに、知り合いカップルがイルミネーションを見に行くという話を聞いて、新宿を歩く〜

奥さん「イルミネーション!」

僕「はい」

友人「いいじゃん、いったら」

奥さん「この人イルミネーションとか見ても楽しめないよ」

僕「目がですね」

奥さん「そう!目が痛いっていうの!」

友人「どういうこと」

奥さん「なんか陽の光とか、イルミネーションとか見て目が痛いって」

友人「ヴァンパイアか」

僕「にんにく超好きですけど」

奥さん「あ、ほら!イルミネーション!」

僕「目が痛い……」

奥さん「きれいだねー」

友人「ねー」

奥さん「ほらみてあの木、あんな高いところにつけた人がいるんだねー、苦労したんだよー」

僕「えっ」

友人「は?」

奥さん「いやだからああいう高いところとかにきっとすごい高いはしごとか使って登るんだよ、大変だねー」

僕「それはほっとけよ!」

友人「そんなん考えんでええやろ!」

奥さん「だってそういうの考えて大変だな―とか思うやろ!」

僕「どんなんだ!ビル見て『ああ労働者が建てたんだなー』って関心するみたいな話ですよそんなん!」

奥さん「いやだって大変じゃん!」

僕「大変だけど!」

友人「楽しめてない!楽しめてない!」

奥さん「えー!」

僕「ダメだ、やめよう。僕らにイルミネーションはまだはやい」

友人「そうですね」

僕「もっと大人になったらイルミネーションを見に来よう」

奥さん「寒いしね」

僕「イルミネーション見るくらいならディズニー・シーいくよね」

奥さん「今は寒いから嫌だけどね」

僕「そうね」

友人「はい」


僕ら夫婦にまだイルミネーションは早いみたいです。

制限の話

一応先に言っておくと、僕はそりゃもうビジネスはからっきしで、全然なんもわかっちゃいない。

昨晩、ちょっと友人と課金の話になった。課金ってのは、つまりネットビジネスの課金の話。で、僕は『制限をかけて解除したけりゃお金払ってね系のスキームがどうも好きじゃないんだよね』という話をした。今日はその話。

一言に制限って言ってもいろいろある。

僕の Github アカウントはこの前 Micro から Small になってしまった(恥ずかしいコードを非公開にしたくて)。これは制限がかかってて、プライベートなリポジトリを作りたければお金を払ってください。というモデルだ。

プライベートリポジトリ 5 つで $7 (Micro Plan)、10 個で $12 (Small Plan)を払ってね、と要求される。大体、1 つのプライベートリポジトリごとに $1 ちょっと払う感じだ。あんまり詳しくないが、こういうのはフリーミアムと言われていて今のネットの世界じゃ結構当たり前なビジネスモデルになっている。

Github の制限にはもちろん納得してお金を払っているわけだが、じゃあ僕はフリーミアムモデルが嫌いなのかっていうとそうじゃない。お金を払えば、より良いサービスが受けられるというのは、別にネットに限ったことじゃなく、より良い接客を受けるために高いレストランに行くようなものなので、むしろいいことじゃないかとすら思う。Github だって同じで、単にプライベートリポジトリを作りたいだけなら BitBucket でタダで作れるのだ。でも僕はそうしないし、選んで Github にお金を払っている。そこはいい。

僕が気に喰わないのは、お金を払わないことで、お客じゃなくなるような仕組みだ。

何かボタンを押す、有料会員のメリットをまとめたでかいダイアログが出る、ダイアログを消す、次の操作をする、有料会員のメリットが懇切丁寧に並んだでかいダイアログが出る、ダイアログを消す……これはあれか、僕はこの操作を今後ずっとこのサービスでやるのか?金を払うまで?冗談だろ?

つまるところ、お金を払わない人がサービスを使おうとすると、圧倒的に不便にするようなつくりになっているサービスが、どうも気に食わないのだ。そりゃ、お金を払っていない人は今のところその会社にとって不利益の権化みたいな人だろう。そのユーザーだってサーバーリソースを消費しているのだから、お金払ってよ!と言いたくなるのは自然だ。自然でも、僕はユーザーとしてすごく嫌だ。そのサービスにお金を払うのは、金のあるなし以前に抵抗がある。

インターネットを通じてやりとりされる金額の総額を僕は知らないが、実際、ああいうお金を払わないと不便になるサービスというのはどれくらい稼げるものなんだろうと思案することがある。だって、お金を払えば素晴らしいサービスを受けられるとはいえ、無料ユーザーな今現在、僕にはちっともそのサービスが魅力的じゃないのだ。僕の目にはとにかく金を寄越せと言っているサービスにしか映らず、払っても本当に快適になるのか、確証が持てないのである。これにどれだけの人がお金を払えるのだろうか。

他に競合のないサービスなら、それでも稼げるのかもしれない。ユーザーに選択肢がないから、その金額要求された分だけ払うしかないから。でもそれは本当に皆が幸せになっているんだろうか、長続きする仕組みなんだろうか。

多分だけれど、ネットに限らずお客さんはそのサービスにリーチ出来る人の上限までしか数が増えない。とある町のスーパーならそのスーパーに通える圏内の人がお客さんの上限になる(他の町からたまに来る人とかもいて、確定ではないだろうけど、だいたいの話)。ネットサービスだってそうで、そのサービスが提供する機能に一切興味のない人はずっと来ないだろうし、興味があったけど飽きてしまった人などはやっぱり去って行ってしまう。町に新しく引っ越してくる人が居るように、ネットサービスにも新しく興味を持ってやってきてくれる人がいる。

そんな新しく来た人は、"門前払い"を食らうことになる。サービスは大抵、生まれた時はシンプルなものだけど、大きくなるにつれて機能が増え、よりビジネスライクになっていく。1 人の夢から生まれたサービスが、1000 人を食わせる企業になり、稼ぎはいつからか義務になっていく。

別にそういう流れそのものを嫌っている訳じゃあない。ただ、始まった頃を忘れてしまうのは、寂しいなと思うくらいだ。そしてより悲しいことに、すでにお金を払っている人は、払っていない人の気持ちにはなれないってことだ。

上で Github の例を出したけど、今僕の目の前で Github はプライベートリポジトリ作るのに金を要求する、なんてひどいやつなんだ、と批判する人が居たとして、僕は『じゃあお金払ったら?』と言ってしまうと思う。だって自分はお金を払った結果、それが正当な対価だと思っているし、払ってよかったなぁとすら思っている。払わない人の気持ちが理解できない。自分にもあったはずの『払って本当に便利になるのか?』の猜疑心を思い出せない。

それで、不便を強要されるとすごく辛い。サービスが好きになれないし、下手をすれば楽しんでサービスを使っている人(お金を払っている人)がまったくもって信じられないことになる。やつら、もしかしてサクラか何かなのか?社員がいいこと言ってるだけなんじゃないのか?という具合に。そしたら不幸な話で、よりお金を払えなくなっていく。払えば、望む限りの素晴らしいサービスが提供されるとしても、だ。これはずいぶん不幸なことだと思う。本来お金を払えばちゃんと報われる人が、しかも払う経済的余裕もある人が、信じられないというただ一点でお金を払えない。払えないから、お客様扱いもしてもらえない、という具合に。

やっぱり、どう考えたって不幸になる感じがする。実際に統計をとったり、ユーザーがどう動いているのかを計測してるわけじゃないので、ほとんどいちゃもんみたいなことしか言えていないのだけれど、やっぱりこういう制限のかかるタイプのサービスはどうも気に食わないのだ。

ただどうか、サービスを作っている方々は、たまには『その制限を自分が初めて触って受けるなら』という想像をして欲しい。もちろん、制限のない状態を知っているあなた方は『まぁちょっとお金払えば解決できるし』と思って軽く流せるだろうけど、払ったことのない人にその景色は想像できないのだ、ということもついでに思い出していただけると幸いです。

ちなみに、特定のサービスを指して書いている話ではないので、念のため。読んでて『あのサイトのことかな?』って思ったらそれはあなたがそのサイトにお金を払ってなくて制限を受けているか、制限に耐えかねてお金を払ったが納得をしていないだけだと思います。

正しさの話

正しいってのは難しい。

A さんの正しいは B さんにとっての間違いだったり、悪だったりする。フィクションでも正しさについて問うたりする場面が多くなったような気がしていて、昔ほど勧善懲悪というわけにもいかなくなったんだろうなぁ、なんて想像する。

『正しいってのは、受け入れられることだ』と昔僕に教えてくれた人がおり、よくわからんまま放置していたのだが、最近ふと思い出して、そういやそうだなぁと再発見した気分になった。

人は生まれたら、やっぱ死ぬ。死ぬのはまぁ、受け入れるしかない、から受け入れる。けど、それは多分他人ごとな時だけで、じゃあ5秒後にお前死ぬから、と言われたら多分受け入れられないから、それは僕にとって正しくないことになる。老衰で母が死ぬ日が来たら、僕は受け入れるだろう。それは、正しい。殺人事件に巻き込まれて母が殺されたら、受け入れられない。それは、正しくない。

こうなってくると、僕にとっての正しさはすごく簡単だし、他人にとっての正しさも簡単だ。受け入れられるか、納得できるか。

僕はすごくわがままなので、受け入れられることと受け入れられないことだと、受け入れられないことの方が多い。世の中には僕にとって正しくないものがあふれている気がしてくる。けど別にそれはなんていうか、存在が間違ってるとかってわけじゃなくて、他の誰かにとって受け入れられ、正しいものなのだと思う。

例えば僕は満員電車がすごく嫌いで、あれは真剣にどうしようもなく正しくない、と思うけど、それでもあれに乗らないと通勤がままならない人は(おそらく、すごく頑張って)受け入れている。受け入れる人が1人でもいるなら、少なくともそれはその人にとって正しいことだ。

正しくないことが多くあることに慣れすぎて、僕はよく勘違いをする。僕は正しくないと思ってるけど、別の誰か、しかもすごく多くの人(ぼんやりと、自分の視界の中でのマジョリティ)が正しいと言っている時、僕は『じゃあ正しいのかな』と、受け入れてしまう。受け入れるべきではないのに。それは素直に正しくないと言い続けてもいいのに。正しさは主張しなくてもいい、受け入れなければ、きちんと正しくないもののままであれるのに、だ。

受け入れてしまうと、元に戻るのは難しくなる。人はきっと、受け止める方が得意ないきものだと思う。受け止めて、受け入れて、適応するから、受け入れてしまうと、受け入れられなかった頃には戻れなくなる。そうすると、自分より若い人(もしくは、受け入れてない人)の正しさを分かり合えなくなる。意固地なやつだなと思って、受け入れたほうが楽なのに、そっちのほうが大多数なのに、と思ってちょっと小馬鹿にしてしまう。

でも、正しさは数の比率で決まるものじゃない。その人にとって、受け入れられたかそうでないかだけが正しさをかたどっていて、常識的正しさみたいなのは、その場にいる人の正しさを集めて積を出したら、常識っぽく見えるだけだ。

難しいけど、適当に自分の正しさを作っちゃいかんなぁと、いまさら思う。

ヒーローの話

『もっとヒーローになるべきだ』

最近、こういう話を人にした。

僕らは大抵社会の中にいて、仕事とかしちゃってて、成果とか満足とか、賃金とかを求めている。お金だけくれればそれでいいかっていうと、多分僕は犬の糞を延々と拾い続けるだけで年収1000万とか言われても多分半年くらいでやめる。半年は頑張れるけど、『なんで俺犬の糞とか拾ってんだろ』みたいな気分になってやめると思う。

で、働くときは大抵雇われている。労働者なら経営者に雇われているし、経営者は消費者に雇われている。雇用者に対してバリューを発揮しないと評価されないから、大抵は成果を出す(わかりやすいところで売上とか)ことが評価されることにつながる。と思う。

成果を追い求めるのはすごく辛い。成果のためにやりたくないことをやる必要がある場面も多くある。いつでもしたいこととやるべきことがマッチしている状況なんてない。

もし、僕が僕の上司だったなら、部下の僕は上司になんて言われたいだろうと思っていた。評価されるときに『もっと成果を出せ』と言われたいだろうかと考えた。辛かった。嫌だよ。辛いことはなるたししたくない。やってもいいけど、意義がほしい。人は大義名分なしには生きていられないと僕は思っている。いつだって自分の意味みたいなものがあって欲しいのだと、僕は思う。私は求められていると思っていたいのだと感じている。

上司の僕は部下の僕にもっと活躍してほしいのだ。もっと輝いて、自慢の部下であって欲しいのだ。成果が出れば褒めることが容易になる。褒める点を見つけるというのは案外むずかしいことなので、褒めれることをしてほしいと願って、そうやって、成果を出せなんて言葉になるとしたら、それで部下の僕がいやな気分になってしまうなら、それはなんだか不幸だから、もっといい言い回しが欲しくて色々考えた。

考えた結果が、「ヒーローになってほしい」だった。

苦境を乗り越え、新たな力を手にチームを助けてほしい。得意な力を活かして、チームを前に押し出してほしい。メンバーを支え、チームの屋台骨であって欲しい。今どきはダークヒーローなんてものもあるくらい、ヒーローはなんだってオッケーになった。成果につながればそれがベストだけど、それだけじゃなくていい。誇れるヒーローとしての自慢話をたくさん作って欲しい。武勇伝だらけの履歴書を作ろう。君の人生を打ち切りマンガなんかにしない。僕はヒーローのための博士でも親友でも同じ土俵に立つヒーローにでもなろう。それこそが僕なりのヒーローのあり方であっていい。

ヒーローはチームに何人いたっていい。皆違うヒーローなのだから。チームメンバー全員ヒーローだってありだ。仮面ライダーだってたくさんいる時代なのだから、ヒーローは何人いたっていい。メンバーAじゃなくて、ヒーローでいてほしい。

ヒーローだから、苦境だって笑って乗り越えられる。虚言だと言うならそうだと思う。結局ただの言い回しでしかない。でも、言い回し1つで心が動くこともあると僕は思っている。

君よ英雄たれ。