神社

庭の鳩に餌をあげないでください

Yo / Po の話

tl;dr Yo に 100 万ドル投資する奴はアホだと真剣に思う。

Twitter への投稿をすべて [Ppo]+ に統一した

思う所があり、 Twitter アカウント @rosylilly への投稿を概ね [Ppo]+ の正規表現で表現可能な文字列で統一した。今のところ不便さはなく、また Yo に比べ圧倒的に表現力のある記号として機能しており、大変満足している。

これは Yo による影響で、下記引用を読んで感銘を受けた結果始めたことになる。

「ただ『Yo』というだけのアプリだと思われているが、本当は違う」と、アーベル氏は米紙ニューヨーク・タイムズNew York Times)に語っている。「われわれとしては、コンテクスト(文脈や背景事情)を基本としたメッセージサービスと呼びたい。ユーザーは、メッセージが送られた時のコンテクストから相手が伝えたかった意味を理解できる」

http://www.afpbb.com/articles/-/3018225

すばらしい考え方である。どう素晴らしいかを説明していこう。

コミュニケーションとして機能する Amazon Wishlist

まず、 Yo の共同制作者であるアーベル氏の説明する、 Yo の『コンテクスト(文脈や事情背景)を基本としたメッセージサービス』という点に着目して、似たような事柄をさがすと、案外簡単に見つかる。

今回 Amazon Wishlist を利用したプレゼントを引き合いに説明する。Amazon Wishlist(長いので、以降は単に Wishlist と表記する)によって、発信者が受信者に送れるのは、受信者が欲しいと言っている商品、もしくは砂1トンであるが、何を送るか、いつ送るかによってその性質は異なり、贈与された物をベースにメッセージを解読可能である。

例えば、最近転職したエンジニア A の Wishlist を通じて別のエンジニア B が転職先の業務に役立ちそうな技術書を送ったとする。これは『転職おめでとう』や『次の職場でも活躍してください!』と解釈でき、また、B が転職元の同僚であった場合はより解釈は限定され、おそらく後者の意味としてのメッセージ性が高まる。まさしく、コンテクストを基本としたメッセージである。

同時期、同発信者から送られたものが砂1トンであれば、また意味合いは異なり、また、同発信者、同贈与物であったとしても、時期が異なれば意味合いは変わってくる。例えば、何の前触れもなく7月のはじめ、ちょうど今頃に Wishlist から何かを送れば、おそらくお中元として解釈され、『お元気ですか』『お変わりないですか』などのメッセージとして機能する。しかし、同時期で同発信者、同様の贈与物であったとしても、以下のようなテキストをあなたがみて、あなたが贈与を送った場合、意味合いは異なる。

面白かったらここから今すぐプレゼントを送れます

上記のリンクを見てしまった場合、そしてこのリンクを僕が掲載した時点から、お中元としての贈与か、それともこの記事の賞賛としての贈与なのか、どちらが正しいかはわからなくなってしまう。しかし、コンテクストを用いれば容易に解釈が可能であり、僕の交友関係にお中元をまめに送るような友人は居ないので、今から数日のうちに届く Wishlist からの贈与は、間違いなくこの記事を楽しんだ誰かの投げ銭として解釈できる。

前後文脈の切り離しによるコンテクストの喪失

僕たちは普段音声を使って会話しているが、音声による会話では、記号から意味を特定するのが難しい単語がある。よく引き合いに出される「あめ」を例に取ると、『あめをあげる』と発音した場合の「あめ」は『飴』として解釈可能であり、『きょうはあめだ』と発音した場合は『雨』として解釈される。つまり、前後の別の記号によってコンテクストを作り上げ、「あめ」という記号が何を指す記号かを特定させることになる。

さきほどのような単純な例だけではなく、現実には様々なコンテクストを用いて記号から意味を解釈していることが多々ある。例えば、飴と雨では発音のアクセントが違うことが多いため、アクセントを用いて区別しているだとかの文脈以外の付加情報を用いる。しかし、これがテキストベースとなると、アクセント等は失われるため表現力は1段落ちる結果になる。音声によるコミュニケーションであれば実現できたはずの、『感情を込める』などの表現はテキストベースのコミュニケーションでは難しく、まさにコンテクストを取り上げられた形となる(『この人は怒っているときはこういう声色だ』というコンテクストが使い物にならないので、判断材料として機能しない)。

前後の文脈が切り離されることで解釈が不可能になる単語は多くある。代表的な例で言えば『UX』『やりがい』『世界を変える』などがある。『世界を変える』は発信者が故スティーブ・ジョブズ氏であれば、『数年がかりの巨大プロジェクトの発足』として解釈され、意識が衛星軌道上にのっている大学生が発信者であれば『暇』という意味の記号として解釈できる。

このように、極端な例だけでなく、TwitterTweet など、短文を主とした発言は前後文脈が喪失することで、意味が通らなくなる、または意味が逆転するなどの現象が起こりうる。

その点、 Yo や Po などの記号を用いたコミュニケーションは、前後文脈の喪失に強いと言える。なぜなら、前後文脈どころか、強力なコンテクストを保持していなければ、まずもって記号の解読が不可能であるからだ。

たとえば

上記の Tweet は『これどうなってんの?』という日本語を『Po????』という記号に変換したもので、『Po????』は『これどうなってんの?』という意味を持つというコンテクストを持っていれば1発で解釈可能な Tweet である。前後文脈どころの騒ぎではなく、『Po????』がどういう意味に対応するか、というコンテクストを持っていなくてはならない。

これが Yo の場合、例えば WORLDCUP アカウントの発する Yo は『ゴール!』という意味を持つ、という記号として定義したコンテクストを受信者全員に植えつけることで、 Yo = ゴール!と解釈させることができる。なるほど、たしかにメッセージとして機能している。すばらしい。

また発信者は自由にコンテクストを作り出し、どういう記号にどういう表現が対応するかを設定することが出来る。

上記2つの Tweet は全くことなる表現である。

受信者として解釈する時はその Tweet のコンテクストを持っているかどうかによって解釈可否が決まる。ちなみに、後者は『もう面倒だから今後は全部 Po で行くことにするわ』という表現の『Po』であるが、前者の『Po』は投稿時のコンテクストを僕が失ってしまったため、発信者のコンテクストが喪失し、今後解読可能な人類もしくは鳥類は現れないことが確定した。

Yo というワイルドカード記号に適宜コンテクストを与え意味を変質させていくということ

認知の不一致による面白さ、というのがある。例えば洋楽曲の発音を日本語の発音として解釈することで、楽曲とはなんら関係ない文章を作り出すことで面白さを得る、といった遊び(俗に言う空耳)や、同音異義の単語をつなげて遊ぶダジャレの世界など、あえて認知を混乱させる、または文章を破壊することで得られる楽しさは、古くからある遊びである。

Yo はその点実に有効に働いており、受信者が自由にコンテクストを選択し適用することで、あえて送信者のコンテクストを破壊し、あくまで想定されていないだろうという『外し』をして解読することで遊ぶという行為が非常にやりやすい。

ということでまさに今(執筆中の現在)、友人 V に Yo を送ってみたが、10秒程度で Yo が戻ってきた。送信した Yo の表現は『テスト』ぐらいのつもりで送ったが、『テスト』に対する返信である Yo は『テスト』や『受信したよ』という具合に解釈するのが妥当だろう。

だが、ここではあえて遊ぶために無意味にコンテクストを足してみる。メールやメッセージのテスト送信に使う単語は人それぞれで、花の名前やアニメキャラの名前などを用いる場合もあるだろうが、僕の周囲だと大人げもなく『うんこ』と送ったりすることがある。IRC をつないで、文字コードがちゃんと設定出来ているかを確認するのに test では不十分なので、日本語の『うんこ』を送る、みたいなケースで利用する。

こういった背景があるので、僕は『テスト』とテスト Yo を送り、おそらく帰って来たのは茶目っ気たっぷりな『うんこ』が帰って来たに違いない(もちろん、この Yo がテスト送信だということを受信者が正しく解釈している前提で)。いい年した大人が最新のデバイスを使い、最近話題のアプリ、しかも1億円もの投資を受けた最高にホットなアプリで『うんこ』を送受信している、と解釈すると、乾いた笑いと涙が一粒出てくる。楽しい。最高のコミュニケーションである。

このように、あまりにも単純な記号表現すぎて、コンテクストが一切見えないことにより、いかようなコンテクストも適用可能で、いかようなコンテクストも排除可能なメッセージとして Yo は機能する。これが例えば Poke などでは、Poke という単語から連想される『つっつく』というイメージを払拭しきれない。『Yo』もまた、ヨゥ!という音が付随するため、なにか話しかけている、といったイメージはついてまわるものの、公式に WORLDCUP がゴールしたら Yo します。というあまりにもコンテクストが必要で、かつ Yo と全然関係ない用例を先に出してきたので、 Yo はワイルドカードな記号に変質してしまった。

アーバン氏の主張する『コンテクスト主体のメッセージ』は実に完璧に成り立っており、コンテクストなくしては一切の解読は不可能な表現、メッセージとして Yo は機能する。

アーバン氏はこうも言っている

“Everyone wanted me to add features, but I refused,” he says. “If you add more words, like ‘Good morning,’ ‘What’s up?’ and ‘Hello’ then the app only knows how to send these words. If you have only the word ‘Yo,’ then it has to be everything. If you want to send it in the morning, it’s basically ‘Good morning.’ If you send it in the middle of the day you are asking ‘What’s up?’ If your boss sends it to you he wants you to come, and if you send it at night you are basically asking ‘You up?’ It all depends on the time, the sender and the context.”

http://www.haaretz.com/business/start-up-of-the-week/1.599913

『朝に Yo が来たらおはようで昼ならどうしてる?で夜なら起きてる?って解釈できるやろ』みたいな話であるが、つまり彼は今までなるべく伝える内容の情報的欠損を減らすために進化してきた言語や記号表現をとにかく排除しまくって、犬の鳴き声よりレベルの低いコミュニケーションを人類に取り戻そうとしてる思想家だということがわかる。

コンテクスト主体のコミュニケーションは、つまり意味する所は『時間、場所、状態、いままでの友好関係など、すべてを考慮してとにかくなんとか解読しろ』ということであり、それはつまり、皆が最高に大好きな『空気を読む』という作業である。空気を読めない各位は今すぐ Yo をインストールして、空気を読む訓練を始めよう。

さいごに

こういう与太話を真剣に読むことに価値はない。

記事を読んで楽しかったら ROSYLILLY に Yo しよう。今後届く Yo は全て『ブログ記事面白かったです』と解釈することにする。