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庭の鳩に餌をあげないでください

賢い人は説明をするのがうまい話

元ネタ:

理解力が低い方は「理解しない」のでなく、「理解力の範囲で理解」する → 表面的な理解に留まったり、曲解に疑問を持たずに止まる。 - Togetter

TL;DR

❌ 賢い人は説明をするのがうまい

⭕ 説明をするのが上手い人と賢い人は別

あと「知りたい要点だけ教えてくれる人」「理解しやすい文章を書く人」「理解した気分にさせてくれる人」は全部別種なので、相手がどのタイプなのか見極める知性が聞き手にない場合、聞き手は知識の獲得機会を失う。

聞き手に最低限の知性が備わっていない場合、賢い人の運用が出来ないため知的格差は拡大する。

本題

個人の体験として僕は「説明がうまい」と言われることがある。説明がうまいと褒めてくれる人はついでに僕の機嫌を良くするべく「なので君は賢い人なんだね」と添えてくれるが、僕から見た世界の景色としては僕の賢さは日本上位50%に入る程度なので、つまり並である。ついでにいうと、僕より圧倒的に賢い人は僕の説明能力を褒めないので、おそらく賢い人から見て僕の説明能力は特段に秀でたものではない。

ついでにいうと褒められる説明能力は口頭が圧倒的で、文章についてはさほど褒められる機会は多くない。

僕の認識する僕の得意分野

まず大前提として僕が認識している僕の得意な技能は、人の機微を伺うことである。機微を知れたからといって最適な返しができるわけではないので役に立たない場面も多いが、少なくとも説明をしている最中に聞き手がなにかの理解を漏らしたり、知った風にして乗り切っていることに気づくことは僕にとって容易である。

概ね、僕は僕のしたい説明を最短ルートで始める。「その要求は RDB では CAP 定理の3項全てを要求しているので実装できません」。

この説明の最中、聞き手が「RDB」に引っかかれば「RDB っていうのはサービスのデータを保存しているでっかい Excel シートみたいなものがある、いわゆるデータベースと言われるソフトのことで」という補足を追加し、「CAP 定理」に引っかかれば「CAP 定理というのは一貫性、可用性、分断耐性という3つの保証のうち、同時に満たせるのは2つまで、という定理のことで、これを満たしたソフトが作れたらすごい特許となんかどえらい科学賞が取れるレベルの話になってきます」という補足を追加する。

補足の中で聞き手が新たになにかに引っかかれば、その補足を追加する。話の長さが相手次第で伸びる悪手だが、基本的にこれを満たせばほぼ必ず聞き手に理解して欲しい知識レベルが満たされる。

あとは知識のひけらかし大会にならないように「この辺はわかってると思いますけど」という顔で説明を繰り返すだけで聞き手は理解してくれる(か、僕の能力では疑問が検知できないレベルにまで落ちる)。なお、これは文章では成立しない(聞き手の機微を感じる方法がない)ため、僕の文章説明能力は懐疑的である。

世界が疫病の危機にさらされて対面でのコミュニケーションが減り、技能の発揮機会も減ったので COVID-19 には大変困らされている。

説明の上手い人が成立するには

前述した僕の技能で「説明が上手い人」ラベルを手に入れるには、以下の前提が必要になる。

  1. 説明に成功する
  2. 説明に成功した相手が一定以上の賢さのある人だと周囲に認められている
  3. その相手が僕の説明能力に対して評価をくれる
  4. その評判を聞いた上で説明を求めた人に説明を成功させる

全条件を満たしてループを回した回数が多いほど「説明が上手い人」度は増していくが、信用と同様にどこかで「彼の説明はイマイチ要領を得なかった」と言われると評判が落ちる。

そして、これらの条件には「真に聞き手が説明を理解すること」や「誠実な対応を取ること」は含まれない。「説明が上手い」は評判なので、知性を保証しない。もし僕が知人間で言われている程度に「説明が上手い」ならば、知人の知性を信用する限り僕はとんでもなく頭がいいことになるが、そのような事実はない。

どれだけ名文の解説を執筆しても、最高の解説を披露しても、ウィットに飛んだ比喩表現を使い倒しても、理解できた気分になって説明に満足したかは聞き手の体験でしかないため、体験を満たすのは難しく、必要とされているのは聞き手を喜ばせる能力に近い。つまり、巷で噂される「説明の上手い人」は「自分をいい気分にしたパフォーマー」に近い。

ところが自分をいい気分にしたパフォーマーが別に賢くない、という前提になると別に賢くないやつに教えてもらってその上いい気分になった奴ということになり、聞き手の体験が著しく悪化するため「説明をするのが上手い人は賢い」ということにしておく必要がある、ということだと僕は認識している。

たまに幼児がはっとする説明をして感心したといったエピソードが披露されるが、あれも賢さの変わりに純真さが自分より高いモノに感心したという聞き手の感想であって、その説明の知識としての価値を保証しない。

「説明の上手い人」は話者によって成立せず、聞き手によって成立する。

賢い人の振る舞い

知性、地頭、才能、賢さ、なんでもいいがまぁとにかく「賢い」人、僕の認識する僕の評価軸における賢い人の振る舞いでいえば、別に彼らは説明能力に関して秀でているというような共通点はもたない。共通する特徴として認識できるものの一つは質問が異様に上手い。

質問が上手い、というのはなにかの説明を聞く能力や疑問を投げかける能力はもちろん、疑問を投げかける相手を選ぶ能力からして上手い。とにかく最短コースで今必要な知識を手に入れるために僕のような人間に補足をさせながら必要な知識の概要を把握し、その深堀りにできの良い解説書を読み、答え合わせに口頭説明能力の低い同分野の専門家への口頭質問を行う。

賢い人は常ながら多くの知識を持っているが、多くの知識を持っているということは知識を獲得するという経験の回数差でもある。どうやった時により早く知識を獲得できたかというナレッジが彼らの中には存在し、その成功体験をできる限りなぞる。

なんらかの専門家は専門性を向上させていくにつれ、その専門を成立させる周辺分野の知識が必要とされるケースが多く、専門でない分野の知識獲得にはその人の知る最短経路を取る。そういう場合、僕の知る限り彼らは上記のような振る舞いをすることが多い。

エンタメの一つとしてわかった気にさせる系解説者のことも気に入っているし、そこで披露されたわかった風になれる解説からキーワードを拾って後日自己学習することもあるように見える。賢い人達は「説明の上手い」とされる人が好きそうに見えるが、好きというより利便性に好意を抱いている気もする。

なので、そういった賢い人達が褒めている説明の上手い人にされた解説が腑に落ちなくても自分の知性を疑う必要はない。彼らに比べてその話し手の運用が下手だった可能性はあるので、自分にあった話し手を求める方が建設的である。

つまり、賢い人達は自分にあった解説者の発見が異様に上手いので理解が早い。それは人であったり書籍であったりと聞き手によって様々なので、自分にあった解説を手に入れるのが賢くなるための最短経路に見える。

相手が賢くないから自分の説明が通らないということはない

前述した通り、説明の成功は聞き手の感情に左右される。どれだけ理詰めの理論的に正しい解説を行っても「全然納得できなかった」と言われれば説明は失敗に終わるため、聞き手にとっては「説明の下手な人」になる。

そのため、説明の成否は聞き手に対して発揮されたホスピタリティの量に左右されるといっても過言ではない。1対1の説明はできるが、1対多の説明は苦手だという人もいるかもしれないが、そういうものである。なので「自分は賢いのに相手が賢くなかったので説明が通じなかった」は正確には「自分の技量が足りず相手を満足させられなかった」であり、それは相手が欲しているものが満たせなかっただけという話なので、別に自分の技量を疑う必要すらない。

ただし、相手が賢くないので自分の説明が通らない、という体験として自己の中で積み上げていくことは相手への見下しを誘発するし、人は存外見下されていることに敏感なため、その時点で話し手に対し悪感情を持ちうる。話し手に悪感情がある状態で「今の話は納得したぞ」と両手を挙げられる聞き手は少ないため、その経験と態度の積み重ねが説明失敗の原因足り得ることには留意されたい。

逆に「よく知らない人から解説される方がすんなり話がわかる」と思っている人は身近な人間から賢しく解説されることに忌避の積み上げがあり、話し手が身近な人間である時点で体験が最悪なのでどう説明されようと結果体験が悪いので説明に納得できず、話し手は説明に失敗する、というケースもありえる。

この場合、その聞き手にとって知識を得る最適な手段は確実に身近な人ではないので外側に知識を求める他ないが、前述した通り説明の濃淡は話し手のホスピタリティに起因する場合が多く、聞き手としてより楽により親身に解説してくれる話し手を求めるなら、過去の悪体験について忘却か整理が必要だろうと思う。

また、情報粒度の問題だとか相手が今持っている前提にそれた解説をするとよくないとか、説明の成功を話し手に起因させたい人は多いが、僕の認知の上ではそれすらも単に聞き手を満足させるために発揮されたホスピタリティの一部であり、究極的に聞き手に左右される以上、万人に向けた完全無欠の解説は存在しない。自分がされて気分の良かった解説例をあげているか、自分の解説が成功したと思える例をあげているにすぎない。

まとめ

適切な対象に適切な質問をぶつけて得たい知識や体験を獲得するのが賢い人だと思うので、そうなれるよう努力している。

この速度が減速、減衰すればするほど出来ている人に比べて相対的な知識量や認知の解像度が落ちていくので留意したい。

地球外少年少女の話

最近マジでクソ忙しいので本当はアニメの話してる場合ではないのだがめちゃくちゃ刺さったので地球外少年少女の話をします。

基本的にネタバレが大量に含まれているので地球外少年少女6話までを見た人以外は読まないほうがいいです。

ナサ・ヒューストン

セブンポエム内で死が決定されていた、ということだが、それ以上に彼女が行うべき役割はおそらくあの場でのダッキーの知能リミッターの解除、つまりはルナティックの誘発。

大量のスマートを用いた物量攻撃をなんでわざわざ長い時間かけて設置したのかでいえば、その圧倒的な物量を覆すための知能(計算量とでもいえばいいのか?)を引き出させる必要があったためだろうなと思う。けど、マジで死んだのか?については懐疑的。彼女はあまり嘘をつかなかった印象があり、そして嘘をついたのは心葉と自身の死についてのみ。

死、というのがあまりテーマな作品に思えず、死亡したということになっているけど本当に死亡したのか、それとも生存しているのか、あるいは『死んだ』のは『あの』ナサ・ヒューストンのみなのか、というあたりが不明瞭。肋骨の損傷以上に突然の吐血などを鑑みるに、なんらかの生体デバイス的な顕現をしていた可能性すらあるなと思っている。

人類と人間

セカンドの語る人類と人間、トウヤくんは結局答えを出さずにいたが、個人的な見解でいうと人類を認識できているセカンドが人間に対して不理解なのは結構違和感があり、おそらく人間も理解した上で、人類と別フレームで捉えている。

それは、セカンドにとっておそらく人類とはゆりかごを飛び出す、あるいは飛び出した知性体を含めたフレームで、作中当時含まれていたのはトウヤ、心葉、ダッキーだけだったのではないか。だからこそセカンドがコミュニケーションを取ったのはその3人類だけだった。それ以外は人間であり、それは管理すべき家畜あるいは保護すべき生き物あるいは少々減らすべき野生の動物であり、今現在人類がクジラに取っている態度に近い。クジラがいくら高度な知能を持った生き物でも、ポジションによってその扱いは別であり、セカンドは環境保護の観点から個体数を削減すべき動物に見え、トウヤくんからは未だ保護すべき愛玩動物に見えている。

トウヤくんが自己を人間と定義しているかは定かではないが、地球人と人間くらいの違いは根底には抱えていそうだったなというところ。

だが待ってほしい。セカンドがコミュニケーションしていた人類は何も上記3名だけではない。まだジョンドゥがいる。

ジョンドゥ

全貌が一切不明のまま終わったが、その1人としてナサ・ヒューストンがいる。ということだけわかっている。

ジョンドゥだけがセブンポエムを解読した、信じるものは救われる、というがある種の確証バイアス的に解読された可能性のあるセブンポエムがなぜあれほどまでに実現性の高い未来予測として機能しているのか、が気になっている。

人類に解読不能死海文書的挙動を示し、かつ解読したとしても分岐的な未来予測としてしか機能していないセブンポエムを、分岐も含めた解像度の高い時系列情報として解読できることに強い違和感がある。セブンはファーストもセカンドも11次元の思考を持ち、彼らが生で出力する情報にはおそらく過去も未来も存在しない。そのいわば生データ的なものを人類の理解できる時系列情報に落とし込めている時点で、ジョンドゥ(あるいはナサ・ヒューストン)はある種トウヤくんと似たようなルナティックを起こした人類かなにかなのではないか?という仮設がある。

もしそうだとするなら、人類がルナティックを起こすためには S パターンを取り込む必要があるはずで、その素養は死亡したムーンチャイルドにしかないはず(心葉は自己に埋め込まれているインプラントを利用して S パターンを取り込んでいる。それにアクセスしたトウヤも同様)。ジョンドゥがなぜ『名無し』なのか、死亡して『名前』は失われているから?などと考えている。

フィッツ

エストニアに起業しているところがなんともらしいというかなんというか……w

それはそれとして、フィッツによって開発されたインプラントによって若年層ばかりが地球外進出していて実に人口の 36% 強が地球外に脱出している、という説明。これはかなりやばい感じがしていおり、その先にある未来は『老いてゆりかごを出る勇気と体力を失った旧人類の住む地球』だ。それは劣った生物のホスピスであり、ゆりかごとしての機能より保護対象、あるいは地球に有用性があれば『邪魔な旧支配者』の発生にもつながる。

フィッツという言葉を忘れるな、フィッツとは……というところが語られないまま、印象深い名前としてトウヤは社名に採用しているが、果たしてそれは福音なのか、呪いの名なのかは気になるところである。本当に社名に『フィッツ』を採用してよかったのだろうか。

セカンドの発電方法

劇中ラストで心葉とトウヤが研究課題にしている、彗星の発電方法。これの原理が解明できるとエネルギー革命が起こることは想像に難くないが、そのエネルギーを得た場合、月及び地球外少年少女たちは地球というエネルギーリソースが必要なくなる。

それ、ほんとに解明しちゃって大丈夫?という気がめちゃくちゃしている。

一旦

気になったのはこんなもん。他にも見返せばいろいろ気になるところが出てくるかもしれない。とにかくめちゃ面白かったです。

文脈の固定の話

DDD とかそういう話にも繋げられるので鳩舎に書こうかと思ったが、大してまとまっちゃいないので神社に残しておく。

今日は文脈の固定の話をしよう。文脈とは言ったがより大雑把に言うならば『コンテキスト』とか『前提』とかそういうもんのことを指している。ここでは面倒なのでそれらの会話や言葉の解釈に使う下地すべてを文脈と呼ぶ。

文脈を固定する、というと大仰に見えるかもしれないが、案外簡単な話である。実践が難しいだけで。

友人 A の話

とある友人は、僕やその他の人に話をする時に、たとえばイの説明をする話の最中に、イの説明に使ったロの説明を始め、ロの説明に使ったハという物の説明を始めて、結局イの話に戻ってくるころには相当な時間が経っている、というようなことがある。最初のうちはええいしゃらくさい話をする奴だなと思ったが、よくよく話してみれば実にわかりよくイロハを伝えてくれ、しかも僕の考えていたロと彼の言うロが違っていたことにも気付かされる、というようなことが多くあった。件の彼は実に賢い人で、こういう『言葉の捉えは人によってわずかに差異があり、それが積もると話が通らなくなる』ということに敏感な人であったと思う。

ここで話を終えてもいいくらいに、これこそが文脈を固定するということであるのだが、人は人と話すとき、なんらかしらの共通認識を使って話をしている。例えばこの神社であれば、読む人は日本語をわかり、中学生くらいの漢字の読解力があり、分からない単語は辞書を引く程度の能力があり……とまぁつらつら書いてゆけばキリのないほどにいろいろな共通認識を使って言葉を話にしている。

何を当たり前な、と思われるかもしれないが、これは非常に難しい作業で、僕は彼と話を繰り返してその大切さを脳に焼いて尚うまいこと出来ないことが多々ある。自分の知っていることを他人が知っているのが当然のような気になってしまって、他人が何を知っており、何を知らないのかという当たり前のようでちっとも想像出来ないことが想像出来ていないことに気づけていないのである。この辺の認知の不一致からくる会話の齟齬は概ね後々から響いてくるので、失敗にその場で気づかないことが多いのも非常に質が悪い。

最近もこれの話を人としたので、より改めて文脈を固定して話をせねばなぁと思い返したのが、今日キーボードを叩いている理由でもある。

私は『スイカ』という単語を知っており、『スイカ』を知らない

小さな子どもなどがスイカを指さして『あれなあに』と問う時に答えられることはそう多くない。概ね僕は『あれはスイカと言うんだよ』と説明して、説明しきったつもりになるだろうが、子供が更に『スイカってなあに』と質問してきたとして、さてその時一体何を教えられるだろうか。

その辺の大人1人を捕まえて『スイカをご存知ですか?』と問いかけると『知っていて当たり前だろうが』というような顔をするだろうが、実は知っているのはあの緑と黒の縞模様で人の頭ほどの大きさがあり、中には赤く水っぽい果肉が詰まって、日本では夏の風物詩とされているあの野菜を『スイカ』と呼ぶ、ということであって、スイカそのものについて深い造詣があるわけではなんらないのである。

このように、『それをなんと呼ぶかは知っている』が『実はその言葉が指すもののことをよく知っているわけではない』ということは多々ある。『知っている』というのが何を指すかというのはまたいくらでも議論の余地のある話であるが、ここでは『知っている』の言葉の意味を限定したいわけではないので省略する。スイカの例で納得行かないなら、僕の事を想像していただくと良い。僕は rosylilly という名前を使ってる。なので多分あなたは『rosylilly さんを知っていますか』と聞かれれば、あああの神社とか言う名前のブログをやっている話の長いやつか、と思えるだろうけど、それは本当に僕を説明しきるに足る言葉だろうか。

名を持っていないものは認知が非常に難しい、というのはよくある話で、例えばよく利用する設計に名前を付けて回った結果、皆の認知が共通になり、大変便利になったというようなものに、デザインパターンなどがある。GoFデザインパターンによって生まれたものは名前だけで、その名が示す設計については名がつく前から利用されていたものばかりである。が、名がついたことで『それ』は『コンポジットパターン』などの名を持ち、人々は『コンポジットパターン』を見つけることが出来た、ということだ。僕もプログラマの端くれとしてデザインパターンを知っているつもりではいるものの、デザインパターンという言葉が指す本質とはなにか、という話をされると喉に単語が引っかかるような物言いしか出来んだろうなと思う。この辺が実に難しい所である。

なので、名を知っているくらいで知っていることにしてしまうと、その実何もわかっていなかったというようなことになるのは目に見えている。『rosylilly を知っている?』に『はい』と答えたからといって、僕の人柄から容姿から、果ては経歴までを知っているというようなことはないだろう。それでも話をするのに僕を知っていることが前提ならば、僕の説明から始めなくてはならないのである(例えば、僕が酔ってやらかした面白話をするには、僕の普段の人となりを知らないと、酔ってどう壊れたかがわからぬので、笑いどころがつかめなくなってしまう)。

『自分が知っていることを他人が知っているというわけではないのだから、きちんと説明しましょう』というような話はどこそこで耳にするありふれた言葉であるが、『知っているといったからといって、自分と同じほどそれに造詣が深いわけではないかもしれぬのだから、きちんと説明してあげなくてはいけないよ』というのは、そう多く聞かないので、皆案外蔑ろにして会話しているのだろうなぁと思う。それでも世は回るので、事もなしと言えばそうなのではあるのだけれど。

物事はプリズムで、見える角度が変われば名が変わる

名が与えられると大変認識しやすくなってよいという話をしたばかりで恐縮だが、安易に名づけをするとしっぺ返しを食らうので注意して欲しい。ちなみにココで言う名とは、例えば『rosylilly』とかの固有名詞とかだけでなく、『神社の人』とか『恋人』とか、なんでもいいのでとにかく何かを示す呼び名のことである。

例えば、僕の奥さんから見た僕は亭主であるので、『旦那さん』とか『夫』とかという名で呼べるのだが、そういう名付けにしてしまうと、その名付けに使った説明文からはみ出た僕の説明文を忘れてしまいがちになる。旦那の説明文の中には、僕の好物や、1人の時に楽しむ趣味の話などは含まれておらず、旦那としての僕の説明しか入ってない。なので、長く旦那と僕を呼び続けると、そのうち実際の生きている僕と呼び名の示す先の男に違いが出てきてしまうのである。これはプログラミングでもよくあることで、このクラスは多分 User という名だろう、と思って User と名づけていたら、案外やらせることが多分にあり、どんどん追加されていって結局このデカイ仕事の塊は本当に User などと呼ばれるような代物だったろうか?ということになる。God Class などと呼ばれる巨大な名の完成である。

人を指すような時は、なるべく大きな(説明文が長くなりそうな)名をつかって呼ぶといいと思っている。例えば奥さんが僕を呼ぶならずっと『rosylilly(もしくは僕の実名)』と呼び続ければいい。『あなた』とか『お父さん』とか呼び始めると家庭が狂う合図である、みたいな話を熟年離婚ブームの時に少し耳にしたが、今になってみればなるほど確かにという気分である。

しかし、このような長話やプログラミングで名付けや特定の名を使うなら、なるべく説明文が短くなるようなものを採用して、その上でその名が示す先のものはなんであるかの説明を付け足し、あげく、意味が変わるなら同じものでも名を変えて呼ぶのが効果的である。これは、説明文が永ければ長いほど、その話の中で名が出てきた時に、説明文のどの部分を使って話しているのかわからなくなることが多々ある、という理由からくる。A は B という状況ならどんなに長い話の中で何度 A が出てきても『ああこれは B のことだな』とか『この A というのは B という意味や意図で使っているな』とわかるものだが、これが、 A は B であり C でもあり D でもあり E でもある。また、たまには F だったりもする。という具合になっていると、A が出てくる度、コレは一体どの意味で使われているのだろうか?と毎度思案させることになる。わかりやすく短い名なのに、使いはじめるとやたら混乱するというのは、概ねこういう状況だろうなぁと思っている。

ただ、現実には A という名が指す先がまったくの単一ということは多くない。概ね何らかの名には『甘い』『食べ物』『緑と黒のしましま』のようないくらかの説明文がついており、その上連想まで含めるともはやどういう状況だかわけがわからなくなってしまうということが多くある。なので、『この話の中では A は B というものやことを指しているよ』と前置きして、文脈を固定し、それ以外の選択肢を排除してやることで、読者は聴者は、悩まずすんなり話を聞く事ができるようになり、筆者や話者は、自分の言いたいことがうまく伝わらずやききもきするあの無力な感情から開放されうるのではないだろうか、というのが今日の話である。

このように

僕が言いたかったのは『話をするときは相手と文脈を揃えて、文脈を固定してから話をするほうがいいよ』という 1 Tweet に収まる内容だったのだが、それを誤解されないように頑張ったらこのザマである。

草生えるの話

早起きしたので、『草生える』について考える。

『草生える』ってのはネットスラングで、多分『笑える』って意味になるんだけど、どうやったら草が生えることが笑えるに繋がるのかってのをかんがえていくと、なかなかどうして興味深い。

笑える、が笑になる

『おもしろーい』『ウケるー』みたいな言葉を均すと、『笑える』になるのだけど、コレがまず『笑』の一文字になったのが事の起こりのような気がする。本来、『笑』だけだとただの動詞か、笑顔そのものを示すための言葉だけど、まぁ通じるので問題なく運用されたんだろう。実際、ネットスラングでなくとも雑誌のインタビュー等で『(笑)』と書かれて笑っていることを示していることも多くあったわけで、ここが省略表現になることは何の違和感もない。

これが口語だと、『わら』という発音で笑ってることをさすというのはまだ理解できないので、多分ここでは『わら』と発音されることはほぼないような時代がある程度の期間あるはず。

『笑は笑えるの意である』ってのが浸透してくると、狙って『笑』と書くので、変換ミス、もしくはダジャレ的同音異義語を無理やり同音同義語として扱うという遊びから『ワラ』『藁』なども笑っていることの表現として受け入れられていく。この辺りで『わら』って音だけで笑っている表現として有用になってくるのかな。『笑』の字から離れて、『わら』の音だけで『笑える・笑っている』が表現でき、それが受け入れられて浸透したのがこの辺じゃないかと思う。この辺りまでくると、口語で『わら』と発音しても、以上の文脈を持っている人なら『ああ、ウケるとか笑えるって意味のわらだな』って解釈が可能になっているはず。

より高速で短い手法で表現する

ワラ、藁まで来ると、もはや『わら』の音なら何でもいいという所にくると思うのだけど、この辺でやっとこ『w』で笑いを表現するぐらいになるだろうか。三省堂の国語辞典曰く、wは『warai』の省略形として運用される日本語とのことだが、多分『わら』の音だけで成立したほうが先なので、『wara』の省略形として『w』があるのではないかと思う。

wが広く受け入れられた理由をちょっと穿って考えてみると、wってローマ字打ちだと連続して打ってもひらがなにならないから、簡単に大量に打てるってのがある。『www』と増やすことで、より『笑っている』を強調出来るから使いやすいなんて事情もあったんじゃなかろうか(笑笑やわららなど、文字を重ねて表記することで意図を強化するのはだれでもやる)。あと、変な話だけれど『wwっうぇww』みたいにタイプミスして『e』を打ってしまっても、引き笑いのように見えるし、これはこれで実際の笑いをよく表現した手段だったのだと思う。

笑うというのは即応性が重要な感情表現なので、笑い時を逃すと下手をすれば恥をかいてしまう(アメリカンジョークの笑いどころを逃す日本人、といったような揶揄に通づる)。そうなってくるとテキストベースコミュニケーションでもなるべく早く笑ってみせる必要があり、そういう時にwは便利だったんだろう。

wが芝になるまで

『w』が市民権を得て、大量に『wwwww』などと書かれるようになってからは鬱陶しがられたり、便利に使われたりと活用されていったが、ここで芝刈り機の AA が出てくることで、『w』に新しい意味が出てくる。広く『w』を芝と呼ぶのは多分あの AA がきっかけなんじゃなかろうか。

        _, ._
      ( ・ω・)
      ○={=}〇,
       |:::::::::\, ', ´
    、、、、し 、、、(((.@)wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 

これな。

こうして『w』は『芝・草』とされ、転じて『草生える』というのが、『大量のwを並べてしまう』につながり、『めっちゃ笑える』として機能するようになった、ということ。

変わっていく文字と言葉

『笑』の元になった『(笑)』の起こりを遡ると昭和、ひいては大正くらいまで戻れるのだが、どうも一般によく使われ始めたのは昭和くらいかららしい(ネットソースなので信用ならんが)。

もちろん、ここに書いてあるだけでなく、こうやって語義が変わったり変化していく流れや理由にはもっと様々な要因がある(例えば、笑いが warai と表記されるようになったのは Diablo で日本語が使えなかったからだ、とか)。

面白いのは、笑という字そのものは象形文字で、実際の事柄の形を文字に起こしたものが、音だけで(形が失われて)なお同じ意味として運用され(ワラ・藁・w)、さらにその言葉の様を見て、形から別の事柄を連想(w → 草・芝)し、ついには到底関係なさそうな言葉が、元の意味を指すようになる(草生える = 笑える)という一連の流れだ。

世の中、言語は死ぬほどあるが、これだけよくわからん変化をたどる文化圏もそうそうなかろうと思う。もっと理屈付けたり、定義や成り立ちを追っていくことは可能なのだろうが、一旦このくらいで止めておく。

しかし何度考えても面白い変化をしたものである。まったくもって草生える。

参考

Yo / Po の話

tl;dr Yo に 100 万ドル投資する奴はアホだと真剣に思う。

Twitter への投稿をすべて [Ppo]+ に統一した

思う所があり、 Twitter アカウント @rosylilly への投稿を概ね [Ppo]+ の正規表現で表現可能な文字列で統一した。今のところ不便さはなく、また Yo に比べ圧倒的に表現力のある記号として機能しており、大変満足している。

これは Yo による影響で、下記引用を読んで感銘を受けた結果始めたことになる。

「ただ『Yo』というだけのアプリだと思われているが、本当は違う」と、アーベル氏は米紙ニューヨーク・タイムズNew York Times)に語っている。「われわれとしては、コンテクスト(文脈や背景事情)を基本としたメッセージサービスと呼びたい。ユーザーは、メッセージが送られた時のコンテクストから相手が伝えたかった意味を理解できる」

http://www.afpbb.com/articles/-/3018225

すばらしい考え方である。どう素晴らしいかを説明していこう。

コミュニケーションとして機能する Amazon Wishlist

まず、 Yo の共同制作者であるアーベル氏の説明する、 Yo の『コンテクスト(文脈や事情背景)を基本としたメッセージサービス』という点に着目して、似たような事柄をさがすと、案外簡単に見つかる。

今回 Amazon Wishlist を利用したプレゼントを引き合いに説明する。Amazon Wishlist(長いので、以降は単に Wishlist と表記する)によって、発信者が受信者に送れるのは、受信者が欲しいと言っている商品、もしくは砂1トンであるが、何を送るか、いつ送るかによってその性質は異なり、贈与された物をベースにメッセージを解読可能である。

例えば、最近転職したエンジニア A の Wishlist を通じて別のエンジニア B が転職先の業務に役立ちそうな技術書を送ったとする。これは『転職おめでとう』や『次の職場でも活躍してください!』と解釈でき、また、B が転職元の同僚であった場合はより解釈は限定され、おそらく後者の意味としてのメッセージ性が高まる。まさしく、コンテクストを基本としたメッセージである。

同時期、同発信者から送られたものが砂1トンであれば、また意味合いは異なり、また、同発信者、同贈与物であったとしても、時期が異なれば意味合いは変わってくる。例えば、何の前触れもなく7月のはじめ、ちょうど今頃に Wishlist から何かを送れば、おそらくお中元として解釈され、『お元気ですか』『お変わりないですか』などのメッセージとして機能する。しかし、同時期で同発信者、同様の贈与物であったとしても、以下のようなテキストをあなたがみて、あなたが贈与を送った場合、意味合いは異なる。

面白かったらここから今すぐプレゼントを送れます

上記のリンクを見てしまった場合、そしてこのリンクを僕が掲載した時点から、お中元としての贈与か、それともこの記事の賞賛としての贈与なのか、どちらが正しいかはわからなくなってしまう。しかし、コンテクストを用いれば容易に解釈が可能であり、僕の交友関係にお中元をまめに送るような友人は居ないので、今から数日のうちに届く Wishlist からの贈与は、間違いなくこの記事を楽しんだ誰かの投げ銭として解釈できる。

前後文脈の切り離しによるコンテクストの喪失

僕たちは普段音声を使って会話しているが、音声による会話では、記号から意味を特定するのが難しい単語がある。よく引き合いに出される「あめ」を例に取ると、『あめをあげる』と発音した場合の「あめ」は『飴』として解釈可能であり、『きょうはあめだ』と発音した場合は『雨』として解釈される。つまり、前後の別の記号によってコンテクストを作り上げ、「あめ」という記号が何を指す記号かを特定させることになる。

さきほどのような単純な例だけではなく、現実には様々なコンテクストを用いて記号から意味を解釈していることが多々ある。例えば、飴と雨では発音のアクセントが違うことが多いため、アクセントを用いて区別しているだとかの文脈以外の付加情報を用いる。しかし、これがテキストベースとなると、アクセント等は失われるため表現力は1段落ちる結果になる。音声によるコミュニケーションであれば実現できたはずの、『感情を込める』などの表現はテキストベースのコミュニケーションでは難しく、まさにコンテクストを取り上げられた形となる(『この人は怒っているときはこういう声色だ』というコンテクストが使い物にならないので、判断材料として機能しない)。

前後の文脈が切り離されることで解釈が不可能になる単語は多くある。代表的な例で言えば『UX』『やりがい』『世界を変える』などがある。『世界を変える』は発信者が故スティーブ・ジョブズ氏であれば、『数年がかりの巨大プロジェクトの発足』として解釈され、意識が衛星軌道上にのっている大学生が発信者であれば『暇』という意味の記号として解釈できる。

このように、極端な例だけでなく、TwitterTweet など、短文を主とした発言は前後文脈が喪失することで、意味が通らなくなる、または意味が逆転するなどの現象が起こりうる。

その点、 Yo や Po などの記号を用いたコミュニケーションは、前後文脈の喪失に強いと言える。なぜなら、前後文脈どころか、強力なコンテクストを保持していなければ、まずもって記号の解読が不可能であるからだ。

たとえば

上記の Tweet は『これどうなってんの?』という日本語を『Po????』という記号に変換したもので、『Po????』は『これどうなってんの?』という意味を持つというコンテクストを持っていれば1発で解釈可能な Tweet である。前後文脈どころの騒ぎではなく、『Po????』がどういう意味に対応するか、というコンテクストを持っていなくてはならない。

これが Yo の場合、例えば WORLDCUP アカウントの発する Yo は『ゴール!』という意味を持つ、という記号として定義したコンテクストを受信者全員に植えつけることで、 Yo = ゴール!と解釈させることができる。なるほど、たしかにメッセージとして機能している。すばらしい。

また発信者は自由にコンテクストを作り出し、どういう記号にどういう表現が対応するかを設定することが出来る。

上記2つの Tweet は全くことなる表現である。

受信者として解釈する時はその Tweet のコンテクストを持っているかどうかによって解釈可否が決まる。ちなみに、後者は『もう面倒だから今後は全部 Po で行くことにするわ』という表現の『Po』であるが、前者の『Po』は投稿時のコンテクストを僕が失ってしまったため、発信者のコンテクストが喪失し、今後解読可能な人類もしくは鳥類は現れないことが確定した。

Yo というワイルドカード記号に適宜コンテクストを与え意味を変質させていくということ

認知の不一致による面白さ、というのがある。例えば洋楽曲の発音を日本語の発音として解釈することで、楽曲とはなんら関係ない文章を作り出すことで面白さを得る、といった遊び(俗に言う空耳)や、同音異義の単語をつなげて遊ぶダジャレの世界など、あえて認知を混乱させる、または文章を破壊することで得られる楽しさは、古くからある遊びである。

Yo はその点実に有効に働いており、受信者が自由にコンテクストを選択し適用することで、あえて送信者のコンテクストを破壊し、あくまで想定されていないだろうという『外し』をして解読することで遊ぶという行為が非常にやりやすい。

ということでまさに今(執筆中の現在)、友人 V に Yo を送ってみたが、10秒程度で Yo が戻ってきた。送信した Yo の表現は『テスト』ぐらいのつもりで送ったが、『テスト』に対する返信である Yo は『テスト』や『受信したよ』という具合に解釈するのが妥当だろう。

だが、ここではあえて遊ぶために無意味にコンテクストを足してみる。メールやメッセージのテスト送信に使う単語は人それぞれで、花の名前やアニメキャラの名前などを用いる場合もあるだろうが、僕の周囲だと大人げもなく『うんこ』と送ったりすることがある。IRC をつないで、文字コードがちゃんと設定出来ているかを確認するのに test では不十分なので、日本語の『うんこ』を送る、みたいなケースで利用する。

こういった背景があるので、僕は『テスト』とテスト Yo を送り、おそらく帰って来たのは茶目っ気たっぷりな『うんこ』が帰って来たに違いない(もちろん、この Yo がテスト送信だということを受信者が正しく解釈している前提で)。いい年した大人が最新のデバイスを使い、最近話題のアプリ、しかも1億円もの投資を受けた最高にホットなアプリで『うんこ』を送受信している、と解釈すると、乾いた笑いと涙が一粒出てくる。楽しい。最高のコミュニケーションである。

このように、あまりにも単純な記号表現すぎて、コンテクストが一切見えないことにより、いかようなコンテクストも適用可能で、いかようなコンテクストも排除可能なメッセージとして Yo は機能する。これが例えば Poke などでは、Poke という単語から連想される『つっつく』というイメージを払拭しきれない。『Yo』もまた、ヨゥ!という音が付随するため、なにか話しかけている、といったイメージはついてまわるものの、公式に WORLDCUP がゴールしたら Yo します。というあまりにもコンテクストが必要で、かつ Yo と全然関係ない用例を先に出してきたので、 Yo はワイルドカードな記号に変質してしまった。

アーバン氏の主張する『コンテクスト主体のメッセージ』は実に完璧に成り立っており、コンテクストなくしては一切の解読は不可能な表現、メッセージとして Yo は機能する。

アーバン氏はこうも言っている

“Everyone wanted me to add features, but I refused,” he says. “If you add more words, like ‘Good morning,’ ‘What’s up?’ and ‘Hello’ then the app only knows how to send these words. If you have only the word ‘Yo,’ then it has to be everything. If you want to send it in the morning, it’s basically ‘Good morning.’ If you send it in the middle of the day you are asking ‘What’s up?’ If your boss sends it to you he wants you to come, and if you send it at night you are basically asking ‘You up?’ It all depends on the time, the sender and the context.”

http://www.haaretz.com/business/start-up-of-the-week/1.599913

『朝に Yo が来たらおはようで昼ならどうしてる?で夜なら起きてる?って解釈できるやろ』みたいな話であるが、つまり彼は今までなるべく伝える内容の情報的欠損を減らすために進化してきた言語や記号表現をとにかく排除しまくって、犬の鳴き声よりレベルの低いコミュニケーションを人類に取り戻そうとしてる思想家だということがわかる。

コンテクスト主体のコミュニケーションは、つまり意味する所は『時間、場所、状態、いままでの友好関係など、すべてを考慮してとにかくなんとか解読しろ』ということであり、それはつまり、皆が最高に大好きな『空気を読む』という作業である。空気を読めない各位は今すぐ Yo をインストールして、空気を読む訓練を始めよう。

さいごに

こういう与太話を真剣に読むことに価値はない。

記事を読んで楽しかったら ROSYLILLY に Yo しよう。今後届く Yo は全て『ブログ記事面白かったです』と解釈することにする。